蔦ヶ岳城
の番所という説もあれば、白山城
の出城という説もある。
弥勒山の山頂付近が城址。東西に細長い構造となっている。
金山から縦走路が繋がり、
弥勒山と金山の間に3本堀切がある。
本丸跡には祠があり、石仏が至るところに置いてある。
少弐氏の居城。太宰府城とも。
13〜16世紀の遺物が発掘されたので、少弐氏だけのものではないようで、
詳細は不明。
現在は完全に住宅地と化し、遺構は分らない。
御笠川の源流を天然の堀として水瓶山から続く丘陵を利用したようだ。
また、東側には太宰府天満宮がある。
畑城主香月氏が築城し、家臣麻生氏が城主。
その後、鷹取城
毛利鎮実の薦めで大友方に寝返ったが、
香月氏の攻撃を受け、落城。麻生氏家臣上杉氏が城主となった。
雲取山頂上は最近整備されたようだが、遺構は大きな岩があるくらいで、
よく分らない。北側に腰曲輪?らしい跡がある。
むしろ、西に伸びる尾根を行くと、石塁が散らばっていたり、堀切の跡、
曲輪構造が残っている。
大友氏の家臣立花鑑載の毛利方への反逆の際に、
大友氏の逆襲に備え麻生隆実に笠木城を修築させたことが
文献に出て来るのが
初めて、ということである。
もともとは宗像氏が城主であったが、その後、
宗像氏と同じく反大友勢力として秋月氏方の居城となった。
その後、秀吉の九州征伐前に廃城となった。
現在の宮田町と飯塚市の境にある425mの笠置山の山頂付近。
南の笠置橋から、もしくは北の千石峡方面から登山道がいくつかある。
笠置橋からだと、急登を登りきり峰に出ると出丸があり、
それ以後、堀切と細長い曲輪が続く。
三の丸の北西部には石塁が残り、
本丸、二の丸北斜面には畝状竪堀が見られる、ということだったが、
木々でその数までは確認しにくい。
その点、本丸西部の畝状竪堀は明瞭である。
元々の大手は笠置方面の方だったということだが、
北方面にある畝状竪堀は秋月氏の傾向であることを考えると、
宗像氏から秋月氏に代わった頃は、南方面は比較的安全になり、
北面からの立花氏を警戒するために後で築いたかもしれない。
また北東にある龍ヶ岳城
の杉氏とも戦闘状態にあったことに依るかもしれない。
笠木城の出城。
白旗山の登山道は最近の文献から推測すると最近整備されたようである。
山頂が本丸ということであるが、
確かに付近に人工的な土塁の跡や空堀の跡らしいものは存在するものの、
非常に狭隘なエリアに密集していて、当時の姿を想像し難い。
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