大友家の家臣、立花道雪、その養子である立花柳川藩の藩祖、立花統虎の居城と
して名高い。大友家の博多の拠点として重要な城であった。城は井樓山を中心に
三日月山、松尾岳、白岳などに渡る。
秀吉の九州征伐後に筑前に入った小早川氏が
名島に城を築いた後に廃城となった。
特に井樓山と松尾岳との縦走路間にある石塁は必見。
また、松尾岳と白岳の間にも、堀切がはっきりと残る。
立花口(新宮方面)からと下原(福岡市)からと登山口がある。30〜40分あれば、
頂上に着く。
下左3つは、 村田修三氏による立花城の測量図(縄張図)による記載、「小つぶら」。 大権現コースを途中まで行き、途中右に踏み跡があり、それに従えばテープがある。 道の右側に石塁が連続して、さらに曲輪が何段も続く。 左から4番目は、三日月山の山頂直下。明かな曲輪の跡。 右端は、松尾岳を白岳方面に少し下った所にある、堀切跡。 下に続く曲輪を区切っている。
元中2年(1385)花谷山神宮寺として創建された。 天正3年(1575)立花道雪の母を埋葬し、法名養孝院から立花山養孝院梅岳寺と名を改めた。 その後、道雪とその家臣薦野三河守増時も埋葬された。
山頂付近は北に虎口があるがこれは後世のものか、本来は北側に枡形虎口があり、さらに下った郭の北に枡形虎口がある。 立花口へ下ったところにある井戸跡は崩壊していた。
畝状竪掘群はかなり痕跡が薄れてきており、見つけるのに苦労した。 その先の堀切は綺麗に残る。三日月山からの攻撃に対する物か。
北側に石塁が残る。小早川時代の物か。
松尾山の山頂を中心に、東西に郭が数段あり、白嶽側には堀切が残る。
B郭から急斜面を西に下ったところにある。 南側の谷側に石塁が残る。
井楼山から周回路を廻って東の尾根に残る。 馬責場は平坦で広い。その先の2つのピークがそれぞれ大一足、小一足となる。 石塁はなく、数段の郭からなる。
三日月山山頂は遺構がはっきりしないが、南側へ下った辺りは巨石や郭が数段残る。 一方、立花山側には虎口の跡が良く残る。
南西側に下る辺りに石塁が残る。 三日月山の南側にある石垣に囲まれたエリアは「福岡県の中近世城館跡II」に指摘されるように、 寺院など城以外の遺構の印象がある。
山頂の次に守りが堅いように見えた。 北のB郭側には土塁が残っている。南にも数段切岸が残る。
C郭から西側に20m下った辺りにある。 末端は痕跡が薄くなっているが、3重堀切になっている。 畝状竪掘もあるようだが、はっきりしなかった。
C郭から南西に下って登り返したところにある。 末端には3重堀切があるが、縄張り図がないと見過ごしそうである。
最南端に位置し、狭い尾根に数段郭が残る。 南端には堀切が残る。
伐採掘削され破壊されてしまったか。
立花山側にある郭であるが、切岸が1段あるぐらいで守りは堅くないように見えた。
範囲が広く、切岸が多く残る。 「福岡県の中近世城館跡II」に指摘されるように、後世の耕作地の可能性もあるようだ。 北東への尾根には数段切岸が続く。
逆「C」の字に尾根にそれぞれ末端に3重堀切が良く残っている。
北への尾根側に堀切らしい跡と、もう1つ堀切が残る。 主郭付近の石塁は後世の物か。
長谷ダムの南西に位置する。 立花山や三日月山に近いa地区の方が、遠いb地区に比べ、改修が後まで行われたのか、 遺構など緊張感があり、技巧的な印象を受けた。一方のb地区は離れるほど作りが曖昧になっていく。
北側の畝上竪掘が藪化して見分けが付きにくいが残っている。
北側の堀切は良く残っている。 畝状竪掘は分からなかった。
北側の突端に堀切が残る。
橿日岳山頂。北側に土塁のある虎口があり下の堀切まで段差がありダイナミックである。
a0から延びる尾根上にあり、竪掘は確認されるが、それ以外ははっきりしない。
東斜面に畝状竪掘群が残る。 南西にも郭は数段あり堀切で断ち切っていた。
城ノ越山山頂南峰。腰郭があるくらいか。
城ノ越山山頂北峰。腰郭が数段あった。堀切が北にあったようだが、未確認。
a5から続く尾根にあるが、郭が数段あるくらい。急にグレードが落ちる感じがする。
bの中では一番手が入っているか。 北端はしっかり堀切がある。 東にある「曲輪?」は谷口山の標識があり自然地形のままだった。
数段郭があるくらい。
こちらも数段郭があるくらい。
名子岳山頂。東側に下った辺りに堀切のような跡や郭が数段残っていた。
南北朝の時期に南朝方の居城となる。戦国時代に下ると原田氏の支城となった。 飯盛神社の脇から登山口がある。頂上まではかなりきついが、30〜40分もあれば 着く。頂上にはそれらしく跡が残っている。
宗像氏の支城。もともと宮地嶽神社の奥社があったらしく碑すらない。 「昔ありました」と云われれば、「そうですね」としか答えることしかできない程。
宗像氏が近くの白山城
から移ってきて、宗像氏の本城となる。天正15年(1587)小早川隆景が破却するように命じられ、翌年破却した。
山頂を中心に北と東の尾根沿いに深い堀切が多数残る。
蔦ヶ嶽の麓には教育大がある。登山口には天然水が出ており、それを汲みに
来る人も多々。
立花氏の家臣、薦野氏の居城。遺構として本丸、二の丸など。ここ最近、
人が寄り付かないせいか、途中、木が倒れていた。
途中の渓流で行水する少年達が羨しかった。
4年振りに行くと、倒木のせいかルートが変わっていた。
本丸の北側には10m程下って曲輪がある。
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