仲哀天皇の9年に神功皇后が三韓出兵の前に、
ここから朝鮮半島を見渡し戦略を練られたと伝えられる。
秀吉の九州征伐の直前、立花宗茂籠る立花城を島津氏が囲んだ時、山上に斥候を
置いたという。その後、秀吉軍が蔦岳城に来たのを見て退いたらしい。
征伐後、博多入りした小早川氏は遠見番をここに置いたという。
現在は、久山町猪野にある伊野天照皇大神宮から登山道がついている。
頂上近辺には、はっりとした遺構はないものの、
人工的な跡がある。
平時は、立花城支配下にあり、城としてのものではなかったかもしれないが、
斥候や物見を置いただけに単式城郭の規模くらいはあったかもしれない。
ここからの視野は北西方向に開けており、眼前に立花山がどっしりと構えている。
高橋紹運が岩屋城落城の直前に、
島津方の鳥飼氏の籠る鳥飼城を落城させた。
現在の南当仁小学校近辺だそうだが、遺構はなにもない。
鳥飼八幡宮の隅に、城主の鳥飼氏を祭ってある。
幕末、加藤司書が外国船の来襲に備え、海に近い福岡城を考慮して、ここに築城した。
犬鳴ダム(司書湖)の奥、西山へ向う道の途中から上がった所にある。
現在は大手門跡が残る。戦前に立てられたであろう加藤司書の忠魂碑がある。
当時の規模がどのくらいだったのかは、遺構がそんなに残っていないので、
見ただけでは分らない。(入口にある看板の中の絵図からすると大規模。)
宗像氏の宮永城の支城。大友氏の侵攻の前に落城。
現在は乙野から林道を登って行くと、城址のすぐ横まで行ける。
植林されたような杉林しかなく、本丸の土塁や竪堀の跡が若干残り、
曲輪の跡がかすかに残る。
13年振りに再訪したが、相変わらず、城として茫洋としてはっきりしない遺構である。
乙野草場城
の出丸的な存在だったのだろうか。
大内氏家臣松井氏の居城。大内氏滅亡後、秋月氏に従い、宗像氏に落城された。
脇田温泉の裏手にある湯原山の手前にある標高100mちょいの山の山頂にある。
登山道は見付けにくいが、適当な場所から強引に薮漕ぎしても行ける。
(実際、薮漕ぎして西部の竪堀伝いに直登した。)
本丸は一段高くなっていることが明瞭。
また北には曲輪が数段も続く。湯原草場城城主松井越後守秀郷の墓が立つ。
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