白村江の戦いの後に、新羅・唐軍に備えて築かれた奈良時代の城と云われる。
土塁は大規模で、その円周内に主城原礎石や村上礎石など多くの礎石群が残る。
また百間石垣は180m弱ある石垣で見応えがある。
ここも昨年(2003)の水害で多少被害があったようだが、
その他に、北石垣は崩壊しているようだし、
大石垣も土石流で完全に崩壊している。
東門が旧3号線沿いに、西門がJRよりも西側にあったとか。 その他、太宰府側から福岡側に水を流したと云われる、木樋が発掘されている。
宗像氏の蔦ヶ嶽城に移るまでの本城。
麓の山田地蔵尊から登山口がある。途中に虎口の跡や石垣が散在しているのが
確認される。また飲み水用であろう水穴(画像3枚目)も本丸のすぐ下にある。
遠賀川に面した、豊前坊の頂上にある。麻生氏の居城。
石垣が残っている。
頂上から見渡す景色はすばらしい、と書きたいところだが、木が繁茂していて
視界は狭い。
藤原秀郷の弟秀遠が城主となり山鹿氏を名宣った。平家が一時安徳天皇を伴なって
逃げて来たこともあるとか。その後、平家の滅亡とともに山鹿氏は滅び、
麻生氏の居城になった。
現在は城山公園となっている。海や遠賀川が近いこともあり、カニがたくさんいた。
遺構はあまりはっきりしない。
文明年間(1469〜87)に花尾城合戦で大内氏に敗れ和睦により、岡に移った麻生家延により築城された。
3代目の隆守の時、帆柱城の異母兄と相続争いとなり、隆守は大内氏に従った。
天文15年(1546)大友宗麟の家臣の瓜生貞延が攻め寄せ、隆守は海蔵寺まで逃げ自害した。
(現地説明板、北九州・京築・田川の城、福岡県の城より)
40mばかりの小さな山で、本丸、二の丸、三の丸跡がある。
南西部に数本堀切らしい跡があるが埋もれている。
一方、北西部に他の遺構とは異なる雰囲気の、2つの折れのある虎口がある。
『北九州・京築・田川の城』によれば、井上周防がここを築城し、麻生隆守は熊山城としているが、
当城東側の隆守院の存在も考えると、江戸期に入って、北西部だけ改修したとの可能性はないのだろうか。
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