東七兵衛尉が城主だった。天文年中(1532〜54)相良義滋が菱刈に出陣の際に従軍した。
(熊本県の中世城跡より)
高瀬のバス停から山へ行く道を辿れば行けることが後から分かった。
脇から登ると東側を周回する横掘2本が残っている。
南側には畑や平坦地がいくつかある。
主郭一帯は植林されているものの、削平されており、切岸もよく残っている。
北側は崖となって落ち込んでいたが、そちらに堀切があったようだが、見落としてしまった。
元々筑後蒲池城
城主を祖とする犬塚氏の肥前直鳥城城主の家久と三男小左衛門尉久次は竜造寺隆信に仕え、
島津氏に備え、ここに築城した。
久次は文禄元年(1592)の朝鮮出兵では加藤清正に従って功があり、関ヶ原の戦い後は阿蘇郡狩尾村で370石を知行した。
(現地説明板より)
現在城ヶ鼻稲荷神社となっており、目立った遺構はないようである。
登り道の途中、尾根が堀切の跡のようにも見えなくもない。
東側に菊池川が流れ、その河岸段丘の台地のへりに位置し、薩摩街道を見下ろす場所である。
蒙古襲来時に活躍した焼米五郎が城主と伝わる。(大系・現地説明板より)
堀切で区分けされた3つの郭からなり、一番東側が主郭か、見晴らしが良い。
西側から下へ尾根沿いに下ると、腰郭らしい跡が残るがはっきりしない。
大橋左衛門平貞経は、筑後守家貞の孫であり、肥後守貞能の子で家貞の時に下向しその後大橋氏を名乗った。
文治2年(1188)3月4日に頼朝が差し向けた梶原景時が攻めたという。
戦国期末期に田中祐実が在城した。(大系・現地説明板より)
合志川・山城川を防備線とする平城で、、土塁らしき物も残ってはいる。
代々出田太郎の居城で、天正年間(1573〜92)城親賢が在城したとも、天文年間(1532〜55)親賢の父の親冬が在城したとも云う。
(菊池市Webサイトより)
出田鬼石古墳や横穴群のすぐ横に位置するが、これといった遺構はない。
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