大津欠連が居城していたが、水の便が悪く、廃城になったという。
また大津義兼により築城され、天正13年(1585)島津氏により落城されたともいう。
(熊本県の中世城郭より)
日吉神社境内、社殿の背後にT字型の小山があり、それが土塁の跡であるという。
神社があり遺構はなく、背後の土塁と云われる物もそうなのかはっきりしない。
阿蘇氏家臣小島三郎とその弟の次郎が在城していたという。(熊本県の中世城郭より)
立派な石碑があり、脇から登りだすも登山口がない。
藪に覆われた谷を掻き分け登って尾根に出たが、後世開墾・植林されたようで、藪も多く、
縄張り図にあるような堀切を見つけることは出来なかった。
天文年間(1532-55)、阿蘇氏家臣辺春丹波守が城主だったという。
天正14年(1586)に島津氏により落城した。
慶長年間(1596-1615)には加藤家家臣(右馬允可重とその次男正方ら)が城代を務めた。
元和元年(1615)一国一城令で廃城になった。
その後、加藤家の後に肥後に入った細川家が参勤交代のために御茶屋を設置した。
(現地説明板と福の神大黒天前の説明板より)
現在は体育館となっており遺構は残っていないが、かつての堀の跡が残る。
城門が浄信寺と明行寺の寺門になったらしいが、浄信寺の寺門は現在真新しい門になっていた。
永禄年間(1558-70)阿蘇氏家臣笹原美濃守が築城した。天正年間に島津義久に落城され、討ち死にした。(現地木碑より)
堀切しか遺構がなく、今の県道になっているという通り、北側の山にもなく、
南側の現在山頂に美濃守の墓が立つ山も後世の手が入っており、遺構は残っていない。
明応2年(1493)蔵原志摩守が在城していたという。(熊本県の中世城郭より)
石碑には、阿蘇家がここで贄をささげいていた頃にちなむ名だということに依れば、「にえづか」だろうか。
北側の北塚と本塚から構成される。本塚の山頂部に阿蘇惟之氏筆の石碑が立つ。
北側に腰郭の跡らしいものが残る。一方、北塚の方は北側は植林されている山で、
こちらも後世の手が入ったのか遺構らしいものはなかった。
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