筑後5



犬塚城蒲池城柳川城塩塚城津留城

犬塚城

久留米市(旧三瀦町)【最寄り駅】西鉄大牟田線三瀦駅

鎮西探題渋川氏の居城であったが、家臣の少弐氏によって滅亡した後、 蒲池氏が城主となり犬塚氏を名のった。 その後、少弐氏に従って佐賀の方へ移り、廃城となった。
現在は、小犬塚にある天満宮となっている。 天満宮内にも櫓台跡らしき土を盛った場所などある。 付近には土塁と陣堀の跡が残り、かなりの規模であったことと考えられる。

犬塚城1(1760bytes) 犬塚城2(1602bytes) 小犬塚の天満宮(1854bytes) 犬塚城4(1632bytes)

蒲池城

柳川市【最寄り駅】西鉄大牟田線蒲池駅・矢ヶ部駅

蒲池氏の柳川に移るまでの本城。蒲池治久から孫鑑盛の頃に繁栄した。 上蒲池氏滅亡後、立花氏が柳川に入った時は、立花家家臣小野和泉守が城代となった。 しかし、江戸期には一国一城令で破却された。
現在は治久の菩提寺・崇久寺が建っている。蒲池氏一族の墓碑もある。 龍造寺氏の侵攻の際に焼失したが、田中氏の時代に再興された。
城の遺構ははっきりしない。 城址の碑は地域住民や子孫の方々らによって作られたとある。

蒲池城碑(1754bytes) 崇久寺(1379bytes)

柳川城

柳川市【最寄り駅】西鉄大牟田線西鉄柳川駅

蒲池鑑盛が蒲池城が守りにくいことから本城を移した。大友側だった鑑盛が耳 川の戦いで戦死後の当主鎮漣は龍造寺に与したが、 その後龍造寺氏に叛旗を翻し、この柳川城で守り抜いた。 和解後、龍造寺隆信に能で招かれ佐賀に出たが、 佐賀の与賀で騙し討ちに遭い、惨殺された。 その後、上蒲池家は塩塚城 で龍造寺氏により滅亡された。
一方、柳川城は秀吉時代は立花宗茂の居城であったが、関ケ原で西軍に与した 罪で改易され、石田三成を捕えた筑後藩主田中吉政の居城となった。 しかし、その子忠政に跡目がなく急死したので田中氏も改易され、 奥州棚倉から再び立花宗茂が柳川藩主に返り咲き、 以後明治維新まで立花家の居城となった。
現在城そのものの遺構は、 柳川高校と柳城中学の間にある本丸・天守閣跡しか残っていない。 ただ川下りで有名なクリークは健在で、 このクリークお蔭で柳川城は難攻不落であった。

柳川城本丸(1557bytes) 柳川城石垣(2010bytes) 柳川城碑(2139bytes)

塩塚城

大和町 【最寄り】西鉄大牟田線塩塚駅

柳川城主蒲池鎮漣の居城。豊後大友氏に属したが、竜造寺隆信に落城され滅亡した。
現在は田んぼと民家になっており遺構ははっきりしない。

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津留城

大和町【最寄り駅】西鉄大牟田線塩塚駅

鷹尾城を本城とする田尻氏の4支城の1つ。
現在はクリークに囲まれているくらいで、遺構ははっきりしない。

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