室町時代初期に上津浦氏の一族が城主だった。
その後、栖本氏と上津浦氏がここを巡って、
天草・大矢野・志岐などの天草五人衆や相良氏・有馬氏なども巻き込んだ戦いの舞台となった。(現地配布資料より)
平成21年に国指定史跡となって整備されている。
最高部の主郭から東側に伸びる尾根伝いに8つ郭が展開される。主郭では生活空間として利用された遺物が出土している。
主郭の北側には三重横掘が残る。規模は大きいものの、技巧的でなく、防備もさほど堅くないせいか、
何度か落城している。
川尻三郎源実明が築城した(現地標識より)。
室町時代前半まで川尻を根拠地として、足利直冬を擁し、その後北朝方となった。
戦国期に入ると菊池氏と不和になり衰退し、菊池義武や大友氏・鹿子木氏の所領になった。
戦国期末期には名和氏の所領であった。(大系より)
現在は古城神社となっており、遺構は残っていない。
神社のすぐ北側を川が流れており、当時の堀であろうか。
佐々木合志氏の前期7代が南北朝〜室町の100年間、矢護川の豊かな実りを祝い、「九万石」と名づけて住んだ。
合志氏はその後戦国期にかけて、飛隈城、合志城(竹迫)へ侵出した。
(現地説明板より)
室町初期に延暦寺の寺領奉行として、延元2年(1337)佐々木長綱が下り来て、合志を名乗ったと伝わる。
近くに千人塚という塚があり、モチの木の下に5余の五輪塔が残る。斉藤尾張守実高(鎌倉初期)の墓と伝わる。
(現地説明板より)
今城下山公園の上部に位置する。藪化しておりはっきりしないが、
台地上に郭らしい段状の跡があるが、遺構なのか。
天文3年(1534)正月肥後守護菊池義宗が兄である豊後守護の大友義鑑に対して叛旗を翻し、
隈本城とこの隈庄城を拠点とした。が4月末に木山城の落城で、隈庄城に籠った相良勢は撤退した。
天文8年に義宗方として戦っていた目方能登守が突如攻め寄せ占領した。
豊福城にいた相良長唯と手を結んだが、阿蘇勢と名和勢に攻められ、落城した。
大友義鑑は甲斐親昌を領主とした。
天文19年(1550)義鑑が謀反で死ぬと、義武(義宗から改名)は再び蜂起し5月19日に隈庄城を奪回した。
が、大友勢が攻め寄せ、11月に相良勢は撤退した。
その後、甲斐氏一族の内紛で不安定な時期が続き、その後安定した。
天正8年(1580)隈庄城城主の甲斐守昌が島津方について蜂起したため、阿蘇大宮司将は甲斐宗運に攻めさせたが、
なかなか落城せず苦戦し、守昌を滅ぼすことは出来なかった。
天正13年(1585)に島津勢に多勢に無勢で落城した。翌年、秀吉の九州征伐の際に島津勢は撤収し、
城を守った宮原景種が討ち死にした。
ここで、赤星統家、相良長安、名和顕孝が秀吉に降参したという。(肥後古城物語より)
現在は一応公園になっているものの、かつての激戦の地という面影を見出すことは容易ではない。
住宅化に伴い消滅したのであろう。公園の東側も道路を挟んで中学校が微高地となっており、城域だったのだろうか。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。