犬塚家久が戦国期に築城したといわれる。
現在はクリークに囲まれた地域で、遺構ははっきりしないものの、
環濠集落であることはよく分る。
松浦党、源栄(有田三郎)が鎌倉時代初期に築城。
4代から松浦党本家から養子が来るようになる。
17代丹後守盛(有馬晴純の弟)の時に、平戸松浦氏との対立から龍造寺隆信に降る。
その後、龍造寺信周、信明、有田茂成と続き、鍋島氏の物となり、
一国一城令により廃城となった。
有田川を天然の濠とした平山城。現在は唐船城公園となっている。
西側が展望台となっていて見晴しが良い。
また、東側に後世の祠の為の物かはっきりしないが、石塁の跡がある。
唐船城の南面しか見てないことを知り、再訪した。
唐船山北面に石塁を備えた城跡が広がる。
石塁については、野面積みの物については、龍造寺氏か鍋島氏時代の物かもしれない。
それ以上の物は、江戸期か明治以降の物かもしれない。
本丸跡には、小さな社があり、西側には山田神社が祀られてある。
本丸後に背後の山への道があり、登ってみると、
以前登った所へ出た。
また、境内の前には、有田川の手前に堀だったと云う、小さな川が今も流れている。
境内西側には、屋敷跡という区域もある。
橘氏の居城。その後、渋江と姓を改めたが、有馬氏の前に落城した。
それからは武雄の後藤氏の支城となった。
潮見神社の裏手にある山。麓には潮見古墳もある。
本丸跡は台を中心に拡がっていて狭いが、そこへ登る細長い道の途中途中に、
石塁を築いてある。
龍造寺隆信の生誕の地。水ヶ江龍造寺の居城。水ヶ江城としての遺構はない。
その後、隆信は寺に入り、還俗し、本家である村中龍造寺も継いだ。
すぐ横に、佐賀の乱の官軍墓地もある。
関東の太田氏が下向して、龍造寺氏の幕下に入り、
小田城の小田氏に対する布石として、
ここに築城した。その後、鍋島家に従い、明治を迎えた。
現在は太田神社を最北としたクリークに囲まれた地域となっている。
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