摂津(兵庫)・播磨・但馬・丹波(兵庫)・淡路4



此隅山城出石城有子山城中村城竹田城

此隅山城

N35.29'14''58, E134.52'20''20
豊岡市(旧出石町)

文中年間(1372〜74)山名師義により築城されたという。 山名氏は全国66ヶ国中11ヶ国を領し、 『六分の一殿』と呼ばれるくらい繁栄し、 山名氏の根拠地但馬の本城が当城であった。 が、その後、盛者必衰の言葉通り、 一族内の不和、応仁の乱などで疲弊し、祐豊の時、永禄12年(1569)信長らの軍勢に落とされた。
但馬一宮、出石神社から少し北に行った、此隅山頂上を中心とした城郭である。 麓から登山道があり、麓から曲輪跡か平坦地があり、 頂上近辺は顕著に曲輪跡が残る。頂上辺りは森を伐裁したようで、 遺構はよく分るが、季節柄熊蜂が多く、辟易させられた。 頂上にある、縄張り図によれば、四方八方に曲輪が張りめぐらされていたようで、 相当大規模な城であったことが想像される。

曲輪1 本丸 曲輪2

出石城

N35.27'37''09, E134.52'26''95
豊岡市(旧出石町)

小出吉英が有子山城から麓の出石城へ移した。 その後、松平忠徳の時、平地の三の郭の対面所に居住を移した。 その後、仙石氏が明治維新まで、途中御家騒動がありながらも続いた。
現在、本丸と稲荷郭には神社があり、観光コースとなっている。

西隅櫓 家中屋敷

有子山城

N35.27'20''69, E134.52'41''29
豊岡市(旧出石町)

此隅山城を落城された、 山名祐豊・氏政親子が天正2年(1574)築城した。 翌年、黒井城主荻野直正に攻められたが、 信長に助けを請い、落城を免れた。が、天正8年からの秀吉の第2次但馬征伐で、 落城した。氏政は因幡に逃れ、祐豊は病没した。
その後、木下昌利、青木勘兵衛、羽柴秀長、前野長康が城主となり、 前野氏は関白秀次の処刑に連座し、 文禄4年(1595)小出吉政が龍野からここに入った。 その後、慶長9年(1604)、その子の吉英が城主となった後、麓の出石城へ移った。
出石城から登っていくと、急斜面のやせ尾根を登ることになる。 途中、竪堀もある(左から4番目画像)。 おそらく、山名氏時代の物ではないだろうが、 山頂近辺は石塁でびっしりとうめ尽されている。本丸の裏手には、 侍屋敷(千畳敷)と伝わるだだ広い曲輪もある。 季節柄、多くの熊蜂には辟易させられたが、大規模な城址に圧倒された。

本丸 西の丸 本丸・千畳敷間 竪堀 遠景

中村城

N35.26'58''66, E134.51'55''17
豊岡市(旧出石町)

詳らかな歴史については未調査。 山名氏の居城か?もしくは有子山城攻めで陣城としても利用されたか?
麓の伊福部神社から階段を上がり、愛宕神社の脇から登り道が続く。 尾根筋に出ると、曲輪がひたすら続く。 頂上近くになった所には、石塁が残っており(左端画像)、 本丸手前の堀切もきれいに残っている(右端画像)。 本丸は低木が多く、遺構がよく分らなかった。

石塁 曲輪 堀切

竹田城

N35.17'58''95, E134.49'43''86
朝来市(旧和田山町)

山名四天王の太田垣氏の居城。但馬国人であった太田垣氏は、 関東より下向した山名氏の家臣となり活躍した。 その後、光景の頃、山名氏の衰退により主従関係は薄れ、 織田氏の勢力が強まるに従い、毛利氏に付いた。 天正5年(1577)秀吉の但馬侵攻で一旦落城され、 木下小一郎が城代として入城したが、ほとなくして再び太田垣氏が城主に戻った。 が、天正8年に城を去ったという。 その後、秀吉により、桑山重晴が入り、 天正13年和歌山に移封されるまで城主であった。 それから、龍野城主であった、 赤松広秀(英)が城主となった。 広秀は関ケ原の戦いの際に西軍に属し、 細川氏の田辺城を攻めたが、 西軍の敗北を知り、宮部氏の鳥取城を攻め、 落城させたが、 城下を延焼させたことを家康に咎められ、自刃した。

竹田城1 竹田城2 竹田城3 竹田城4


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