文中年間(1372〜74)山名師義により築城されたという。
山名氏は全国66ヶ国中11ヶ国を領し、
『六分の一殿』と呼ばれるくらい繁栄し、
山名氏の根拠地但馬の本城が当城であった。
が、その後、盛者必衰の言葉通り、
一族内の不和、応仁の乱などで疲弊し、祐豊の時、永禄12年(1569)信長らの軍勢に落とされた。
但馬一宮、出石神社から少し北に行った、此隅山頂上を中心とした城郭である。
麓から登山道があり、麓から曲輪跡か平坦地があり、
頂上近辺は顕著に曲輪跡が残る。頂上辺りは森を伐裁したようで、
遺構はよく分るが、季節柄熊蜂が多く、辟易させられた。
頂上にある、縄張り図によれば、四方八方に曲輪が張りめぐらされていたようで、
相当大規模な城であったことが想像される。
小出吉英が有子山城から麓の出石城へ移した。
その後、松平忠徳の時、平地の三の郭の対面所に居住を移した。
その後、仙石氏が明治維新まで、途中御家騒動がありながらも続いた。
現在、本丸と稲荷郭には神社があり、観光コースとなっている。
此隅山城を落城された、
山名祐豊・氏政親子が天正2年(1574)築城した。
翌年、黒井城主荻野直正に攻められたが、
信長に助けを請い、落城を免れた。が、天正8年からの秀吉の第2次但馬征伐で、
落城した。氏政は因幡に逃れ、祐豊は病没した。
その後、木下昌利、青木勘兵衛、羽柴秀長、前野長康が城主となり、
前野氏は関白秀次の処刑に連座し、
文禄4年(1595)小出吉政が龍野からここに入った。
その後、慶長9年(1604)、その子の吉英が城主となった後、麓の出石城へ移った。
出石城から登っていくと、急斜面のやせ尾根を登ることになる。
途中、竪堀もある(左から4番目画像)。
おそらく、山名氏時代の物ではないだろうが、
山頂近辺は石塁でびっしりとうめ尽されている。本丸の裏手には、
侍屋敷(千畳敷)と伝わるだだ広い曲輪もある。
季節柄、多くの熊蜂には辟易させられたが、大規模な城址に圧倒された。
詳らかな歴史については未調査。
山名氏の居城か?もしくは有子山城攻めで陣城としても利用されたか?
麓の伊福部神社から階段を上がり、愛宕神社の脇から登り道が続く。
尾根筋に出ると、曲輪がひたすら続く。
頂上近くになった所には、石塁が残っており(左端画像)、
本丸手前の堀切もきれいに残っている(右端画像)。
本丸は低木が多く、遺構がよく分らなかった。
山名四天王の太田垣氏の居城。但馬国人であった太田垣氏は、 関東より下向した山名氏の家臣となり活躍した。 その後、光景の頃、山名氏の衰退により主従関係は薄れ、 織田氏の勢力が強まるに従い、毛利氏に付いた。 天正5年(1577)秀吉の但馬侵攻で一旦落城され、 木下小一郎が城代として入城したが、ほとなくして再び太田垣氏が城主に戻った。 が、天正8年に城を去ったという。 その後、秀吉により、桑山重晴が入り、 天正13年和歌山に移封されるまで城主であった。 それから、龍野城主であった、 赤松広秀(英)が城主となった。 広秀は関ケ原の戦いの際に西軍に属し、 細川氏の田辺城を攻めたが、 西軍の敗北を知り、宮部氏の鳥取城を攻め、 落城させたが、 城下を延焼させたことを家康に咎められ、自刃した。
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