山城・丹波(京都)・丹後3



周山城田辺城寺戸城今里城開田城

周山城

N35.09'24''86, E135.37'21''12
京都市(旧京北町)

天正年間に丹波平定を命じられた、明智光秀が築城。
周山の町から登って行くと、虎口(大手門?)があり、南側に石塁がある。 そこを過ぎると本丸跡で石塁が残っているものの、廃城となったせいか、 整然となっていない。南側に曲輪が突き出ている。 本丸から西へ下ると、別の曲輪で、北側に井戸の跡があり、 西斜面に綺麗に石垣が残る。 さらに、西へ下ると、堀切が2条あり、傾斜が再び上がり出した所で、 土だけで築かれた曲輪跡がある。 ここは、支城としてとらえられているようだが、区別しにくい。 この支城の跡も比較的大きく、曲輪や堀切など、 神経質にきめ細かに築かれてある。 さらに西にもあったのかもしれないが、林道が横切り、推定不可。 但し、黒尾山までは伸びてはないよう。 この周山城だけを見ても、城主であった、 明智光秀の人柄を反映しているように思える。

周山城本丸 周山城石塁

田辺(舞鶴)城

N35.26'46''28, E135.19'52''96
舞鶴市【最寄り駅】JR・北近畿丹後鉄道西舞鶴駅

天正8年(1580)から細川幽斎親子が縄張りし、築城。 この田辺城を有名にしたのは、関ケ原の戦いの前哨戦においてであろう。 三成方に包囲された、幽斎は、籠城の末、古今和歌集の秘伝の継承者であった ことから調停が入り、開城となった。関ケ原後は、京極高知が城主となり、 その後、庶子の高三が城主となり、田辺藩が出来る。 京極氏転封後、牧野親成が入城し、幕末まで続いた。

田辺城 田辺城 田辺城

寺戸城

N34.57'01''34, E135.41'51''70
向日市【最寄り駅】阪急京都線東向日駅

上久世庄の公文職、竹田氏の居館といわれるが定かでない。
現在は住宅地と化して、何も残らない。

寺戸城

今里城

N34.56'01''35, E135.41'14''30
長岡京市

能勢氏の城館跡という。
発掘調査でいろいろと出土したらしいが、 現在は、住宅地や畑と化して、遺構も何もない。

今里城

開田城

N34.55'32''99, E135.41'23''02
長岡京市【最寄り駅】阪急京都線長岡天神駅

国衆の中小路氏の居城。 中小路氏は西岡被官人の1人で、 戦国期前半には細川氏の被官であったと考えられている。
現在は、真新しいマンションの横に土塁だけ残る。 さ程規模は大きくなかったようだ。

開田城


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