寺内町から発展した。
塚口御坊は応永16年(1409)に性曇上人によって建立さられたという。
天正6年(1578)荒木村重が信長に対し、叛旗を翻した際に、
本城の有岡城からここを出城としたが、
すぐに退却し、
信長側の攻城軍に抑えられた。
ここには、信長公記によれば、11巻12月に
『一、塚口郷、惟住五郎左衛門・蜂屋兵庫・蒲生忠三郎・高山右近・神戸三七信孝』
とあり、丹羽長秀、蜂屋頼隆、蒲生氏郷、高山右近、神戸信孝が入ったことが分る。
さらに12巻4月には
『一、塚口郷、惟住五郎左衛門・蜂屋兵庫頭・蒲生忠三郎』と高山右近は
深田に移っている。一時、荒木軍がここを攻めたが失敗に終わっている。
村重が花隈城へ逃げた後、
有岡城落城とともにここも役目を終えた。
現在、御坊があった所には正玄寺があるが関連性はないらしい。
かつては御坊を包囲した、水堀や土塁は一部だけ残っている。
画像は東町門の跡である。
大永6年(1526)細川高国が細川尹賢に命じて築かせた。
秀吉の時代から建部氏が郡代で、江戸時代に入っても続いたが、
元和3年(1617)林田に移封となった。
その後に戸田氏鉄が5万石の所領で入り、本格的に築城した。
戸田氏の後、青山氏、松平氏と続き、明治維新を迎えた。
一時は4層の天守閣を備えた尼崎城は、維新後に徐々に姿を消し、
今は、阪神尼崎駅の南東に城址公園があり、その南東に石碑を残すのみである。
赤松氏家臣別所則治が築城した。村治の時に尼子氏の攻撃を受けたが、
落城せず、細川氏、三好氏に属することとなった。
安治の時に信長方に属き、天正6年(1578)長治の時、織田氏から寝返り、
毛利氏に属いた。天正8年(1580)1月17日に長治が切腹し降伏するまで、
20ヶ月戦ったが、秀吉の兵糧攻めに前に屈っした。
その後、天正13年(1585)中川秀政が入り、文禄3年(1594)秀成の時転封され、
豊臣家の直轄地となった。関ケ原後は、姫路の池田氏の領地となり家臣の伊木氏が入るも、
一国一城令で廃城となった。
現在、神戸電鉄三木上の丸駅のすぐ裏手に位置し、アクセスは良いが、
かんかん井戸などしか残っておらず、長治の墓がある雲龍寺の南面に堀の跡があり、
市役所にかけて森となっているが遺構が残っているのかどうかは分らない。
兵糧攻めにした際の秀吉方の30余りの陣城の1つである。
現在、歴史公園となっており、
土塁で囲まれ、櫓台を備えた跡が残る。
虎口や堀の跡も残るが、自然にかなり削られてしまっている。
歴史公園として整備されていながら、やや薮化しており、
周りに看板標識もなく、地元でもほとんど知られていない存在であるよう。
中村氏の居城であったが、別府氏もしくは別所氏によって滅ぼされた。
現在は公園化されており、しっかり管理されている。
遺構を見付ける喜びは感じさせないが、土塁や堀切、
櫓など当時のままに再現している点は大いに評価できるだろう。
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