因幡・伯耆1



打吹城田内城天神山城雁金城鳥取城

打吹城

N35.25'37''02, E133.49'18''29
倉吉市【最寄り駅】JR山陰本線倉吉駅

延文年間に山名師義が田内城から移った。 大永4年(1524)尼子経久に落城され、毛利氏に属き、奪回した。 その後は、天正8年(1580)吉川元春が城主となり、天正10年秀吉との和睦後、 羽衣石城の支配下となった。 関ケ原後は、 中村一氏が伯耆の領主となり、ここに城番を置いたが、一国一城令で廃城となった。
羽衣石城主南条氏の支配下になったことがあり、 備前丸、小鴨丸と呼ばれる曲輪があり、中村一氏家臣山田越中守のいたことから、 西側に越中丸が残る(南条氏の家臣たったともあるが、どちらが真か?)。 本丸の東側に石塁が残り、堀切が残る。現在は、打吹公園となっている。


田内城

N35.26'35''37, E133.50'15''94
倉吉市【最寄り駅】JR山陰本線倉吉駅

山名時氏が興国年間初頭に、嫡子師義を城主とした。 その後延文年間に、師義は打吹城に移り、廃城となった。
山頂には、時代錯誤的な櫓が立っている。 登山口からの道は急峻で遺構はよく分らない。 むしろ、その裏手にかすかに曲輪や堀切のような跡がある。


天神山城

N35.30'35''14, E134.10'35''04
鳥取市【最寄り駅】JR山陰本線湖山駅

文正元年(1466)山名勝豊が但馬から因幡に入り、築城した。 その後、山名氏8代城主であった。 天文17年(1543)誠通の時、但馬山名氏の祐豊により奇襲され、 炎上し、誠通は討ち死にした。その後、祐豊の弟、豊定を後見に迎えた。 その後、家臣の武田高信が叛き、因幡山名氏は滅んだが、豊定の子孫が城主となり、 豊国の時、天正元年(1573)、鳥取城へ移った。
現在、鳥取緑風高校のすぐ西側に残っている。 井戸が残り、曲輪と曲輪か堀切のようになっている。 湖山池から堀を設けていたようだが、今は埋めたてられて残っていない。

本丸 堀切 切岸

雁金城

N35.30'50''85, E134.14'04''84
鳥取市【最寄り駅】JR山陰本線鳥取駅

天正9年(1579)、吉川経家が鳥取城籠城に際し、丸山城との繋ぎの城として築城した。 が、宮部善祥房により攻められ、城将塩冶周防守は丸山城へ逃れた。
鳥取城のある久松山と尾根続きで、現在、山頂に平和祈念塔が立っている。 北側にかすかに曲輪の跡が残るが、全体を通してはっきりしない。



鳥取城

N35.30'26''47, E134.14'23''12
鳥取市【最寄り駅】JR山陰本線鳥取駅

天文14年(1540)天神山城主山名誠通が但馬山名氏に対抗し、 久松山に出城を築いた。が、その後、武田豊前守が城番となり、 嫡子の高信の時、叛旗を翻した。 しかし、山名氏との戦闘で勢力が落ち、山名豊国を助けた山中鹿之助(幸盛)の前に屈っし、 鵯尾城へと移り、豊国が城主となった。
その後、秀吉の侵攻で家臣を抑えて、豊国は降伏したが、 結局、豊国は家臣に追い出され、毛利氏に援助を請い、 福光城主吉川経安の嫡男経家が城督として入った。 2回目の鳥取城攻めで、秀吉は帝釈山に陣を布き、兵糧攻めを行なった。 3ヶ月の包囲で、経家は城兵の命と引き換えに、切腹し、落城した。
秀吉の平定後、宮部継潤が城主となったが、関ケ原の戦いで西軍に属き、没収された。 その後に、池田長吉が入った。長吉の子、長幸は備中松山に移り、池田光政が入った。 光政もその後、岡山に移り、替わって、岡山から池田光仲が入り、明治維新まで池田家が続いた。
現在、麓に石垣と堀を伴った城郭が残り、 久松山の頂上にも、石垣など遺構が残っている。

麓 山上の丸1 山上の丸2

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