延文年間に山名師義が田内城から移った。
大永4年(1524)尼子経久に落城され、毛利氏に属き、奪回した。
その後は、天正8年(1580)吉川元春が城主となり、天正10年秀吉との和睦後、
羽衣石城の支配下となった。 関ケ原後は、
中村一氏が伯耆の領主となり、ここに城番を置いたが、一国一城令で廃城となった。
羽衣石城主南条氏の支配下になったことがあり、
備前丸、小鴨丸と呼ばれる曲輪があり、中村一氏家臣山田越中守のいたことから、
西側に越中丸が残る(南条氏の家臣たったともあるが、どちらが真か?)。
本丸の東側に石塁が残り、堀切が残る。現在は、打吹公園となっている。
山名時氏が興国年間初頭に、嫡子師義を城主とした。
その後延文年間に、師義は打吹城に移り、廃城となった。
山頂には、時代錯誤的な櫓が立っている。
登山口からの道は急峻で遺構はよく分らない。
むしろ、その裏手にかすかに曲輪や堀切のような跡がある。
文正元年(1466)山名勝豊が但馬から因幡に入り、築城した。
その後、山名氏8代城主であった。
天文17年(1543)誠通の時、但馬山名氏の祐豊により奇襲され、
炎上し、誠通は討ち死にした。その後、祐豊の弟、豊定を後見に迎えた。
その後、家臣の武田高信が叛き、因幡山名氏は滅んだが、豊定の子孫が城主となり、
豊国の時、天正元年(1573)、鳥取城へ移った。
現在、鳥取緑風高校のすぐ西側に残っている。
井戸が残り、曲輪と曲輪か堀切のようになっている。
湖山池から堀を設けていたようだが、今は埋めたてられて残っていない。
天正9年(1579)、吉川経家が鳥取城籠城に際し、丸山城との繋ぎの城として築城した。
が、宮部善祥房により攻められ、城将塩冶周防守は丸山城へ逃れた。
鳥取城のある久松山と尾根続きで、現在、山頂に平和祈念塔が立っている。
北側にかすかに曲輪の跡が残るが、全体を通してはっきりしない。
天文14年(1540)天神山城主山名誠通が但馬山名氏に対抗し、
久松山に出城を築いた。が、その後、武田豊前守が城番となり、
嫡子の高信の時、叛旗を翻した。
しかし、山名氏との戦闘で勢力が落ち、山名豊国を助けた山中鹿之助(幸盛)の前に屈っし、
鵯尾城へと移り、豊国が城主となった。
その後、秀吉の侵攻で家臣を抑えて、豊国は降伏したが、
結局、豊国は家臣に追い出され、毛利氏に援助を請い、
福光城主吉川経安の嫡男経家が城督として入った。
2回目の鳥取城攻めで、秀吉は帝釈山に陣を布き、兵糧攻めを行なった。
3ヶ月の包囲で、経家は城兵の命と引き換えに、切腹し、落城した。
秀吉の平定後、宮部継潤が城主となったが、関ケ原の戦いで西軍に属き、没収された。
その後に、池田長吉が入った。長吉の子、長幸は備中松山に移り、池田光政が入った。
光政もその後、岡山に移り、替わって、岡山から池田光仲が入り、明治維新まで池田家が続いた。
現在、麓に石垣と堀を伴った城郭が残り、
久松山の頂上にも、石垣など遺構が残っている。
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