摂津(兵庫)・播磨・但馬・丹波(兵庫)・淡路2



御着城龍野城上月城黒井城澤田城

御着城

N34.49'07''35, E134.44'28''10
姫路市【最寄り駅】JR山陽本線御着駅

別名、茶臼山城、天川城とも。 播磨守護赤松氏家臣小寺氏の居城。1519年に小寺政隆が築城し、 則職、政職と続き、秀吉に落城されたという。 この小寺氏の築城以前にも、既に館があったらしい。
現在、姫路市の支所があるだけで、遺構はよく分らない。 すぐ横に、黒田官兵衛孝高の祖父重隆夫妻の墓所がある。

城碑 支所

龍野城

N34.52'22''07, E134.32'41''10
龍野市【最寄り駅】JR姫新線本龍野駅

1499年赤松氏により築城され、赤松村秀が城主となる。 その後、政秀、広貞、広英と続くが、広英の時、 秀吉に攻められ、篭城を止め、降伏する。 その後は、蜂須賀正勝、福島正則、木下勝俊、小出吉政と城主が代わった。 1598年頃に廃城となり、麓に移ったといわれる。
龍野城の裏手から遺構がある。 麓は段々の曲輪があり、登って行くと土塁と堀のある二の丸のある曲輪群に出る。 二の丸まで数段の曲輪が続く。二の丸から、少し下り、再び本丸へと登る。 本丸は石塁などで固められている。北西(搦手?)に道は続き、 竪堀などの遺構がある。 峠から麓へ下る道々には、屋敷跡の石塁が残っている。

二の丸 城碑 本丸 本丸石塁1 本丸石塁2 竪堀

N34.52'08''01, E134.32'39''97

京極高知が城主となり、丸亀移封後、天領となり廃城となったが、 飯田から脇坂安政が入り、陣屋風に再建した。
古城に比べると見どころは少ない。多聞櫓くらいか。

城門 曲輪

上月城


上月町【最寄り駅】JR姫新線上月駅

鎌倉時代末期に上月次郎景盛が始め大平山に築城した。 この上月氏時代に現在の荒神山に移した。 戦国期には、赤松氏の居城となり、政範の時、秀吉に落城され、 自刃した。その後、尼子勝久、山中鹿之助を入れたが、 宇喜多氏に落とされ、上月十郎景貞を入れるも、 再び、秀吉軍に落城された。その後は、有名な展開である、 尼子勝久、山中鹿之助籠る上月城を毛利軍が囲み、 救援に来た、秀吉軍は信長の三木城攻略要請のため見捨て、落城する ということになる。勝久は自刃し、鹿之助は護送中、高梁川で斬殺された。
大手から登ると、堀切を越えてから曲輪が数段続き、本丸となる。 眺望は良い。背後に細い道を経由して二の丸に出、 搦手へ堀切と曲輪が続く。 麓から頂上までは、すぐで、意外に規模が小さく感じた。

本丸手前 本丸 二の丸 連絡道

黒井城

N35.10'44''96, E135.06'14''91
丹波市【最寄り駅】JR福知山線黒井駅

戦国期に赤井直正(荻野悪右衛門)が城主となって、いったん、織田方に付くが、 信長包囲網を布き、織田方の攻撃を度々受けるも、これを退けた。 降伏勧告に来た、脇坂安治に黒井家家宝「豹の皮」を与えた。 直正の病死後、落城した。その後は、 明智家臣斎藤利三が麓に陣屋(現・興禅寺)を構え、氷上郡を治めた。 利三の娘である、春日局はここで産まれたという。 本能寺の変後は、堀尾吉晴が城主となった。
本城のある猪ノ口山(356m)を中心に、周囲の山の尾根沿いに曲輪を配置した、 大規模な城址である。本城には、石塁も残っているが、 斎藤利三以後の物と想像される。

黒井城1 黒井城2 黒井城3 黒井城4 東出丸 興禅寺

澤田城

N35.04'48''76, E135.13'37''57
篠山市【最寄り駅】JR福知山線篠山口駅

天文年間、波多野秀治の命令で小林長任が築城し、城主となる。 天正7年、4代目の城主、重範の時、明智勢に落城された。
落城前に城主が建てた、小林寺が今もあり、その裏山が城址。 竹林となり荒れ気味である。 規模は小さいが、曲輪の跡などは残る。

澤田城碑 澤田城 澤田城屋敷跡? 小林寺


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