別名、茶臼山城、天川城とも。
播磨守護赤松氏家臣小寺氏の居城。1519年に小寺政隆が築城し、
則職、政職と続き、秀吉に落城されたという。
この小寺氏の築城以前にも、既に館があったらしい。
現在、姫路市の支所があるだけで、遺構はよく分らない。
すぐ横に、黒田官兵衛孝高の祖父重隆夫妻の墓所がある。
1499年赤松氏により築城され、赤松村秀が城主となる。
その後、政秀、広貞、広英と続くが、広英の時、
秀吉に攻められ、篭城を止め、降伏する。
その後は、蜂須賀正勝、福島正則、木下勝俊、小出吉政と城主が代わった。
1598年頃に廃城となり、麓に移ったといわれる。
龍野城の裏手から遺構がある。
麓は段々の曲輪があり、登って行くと土塁と堀のある二の丸のある曲輪群に出る。
二の丸まで数段の曲輪が続く。二の丸から、少し下り、再び本丸へと登る。
本丸は石塁などで固められている。北西(搦手?)に道は続き、
竪堀などの遺構がある。
峠から麓へ下る道々には、屋敷跡の石塁が残っている。
京極高知が城主となり、丸亀移封後、天領となり廃城となったが、
飯田から脇坂安政が入り、陣屋風に再建した。
古城に比べると見どころは少ない。多聞櫓くらいか。
鎌倉時代末期に上月次郎景盛が始め大平山に築城した。
この上月氏時代に現在の荒神山に移した。
戦国期には、赤松氏の居城となり、政範の時、秀吉に落城され、
自刃した。その後、尼子勝久、山中鹿之助を入れたが、
宇喜多氏に落とされ、上月十郎景貞を入れるも、
再び、秀吉軍に落城された。その後は、有名な展開である、
尼子勝久、山中鹿之助籠る上月城を毛利軍が囲み、
救援に来た、秀吉軍は信長の三木城攻略要請のため見捨て、落城する
ということになる。勝久は自刃し、鹿之助は護送中、高梁川で斬殺された。
大手から登ると、堀切を越えてから曲輪が数段続き、本丸となる。
眺望は良い。背後に細い道を経由して二の丸に出、
搦手へ堀切と曲輪が続く。
麓から頂上までは、すぐで、意外に規模が小さく感じた。
戦国期に赤井直正(荻野悪右衛門)が城主となって、いったん、織田方に付くが、
信長包囲網を布き、織田方の攻撃を度々受けるも、これを退けた。
降伏勧告に来た、脇坂安治に黒井家家宝「豹の皮」を与えた。
直正の病死後、落城した。その後は、
明智家臣斎藤利三が麓に陣屋(現・興禅寺)を構え、氷上郡を治めた。
利三の娘である、春日局はここで産まれたという。
本能寺の変後は、堀尾吉晴が城主となった。
本城のある猪ノ口山(356m)を中心に、周囲の山の尾根沿いに曲輪を配置した、
大規模な城址である。本城には、石塁も残っているが、
斎藤利三以後の物と想像される。
天文年間、波多野秀治の命令で小林長任が築城し、城主となる。
天正7年、4代目の城主、重範の時、明智勢に落城された。
落城前に城主が建てた、小林寺が今もあり、その裏山が城址。
竹林となり荒れ気味である。
規模は小さいが、曲輪の跡などは残る。
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