摂津(兵庫)・播磨・但馬・丹波(兵庫)・淡路3



篠山城八上城芦屋城豊岡城正法寺城

篠山城

N35.04'24''16, E135.13'02''98
篠山市【最寄り駅】JR福知山線篠山口駅

慶長14年(1609)に築城が始まる。天下普請の1つで、 大坂を牽制するために、 20の諸大名が動員され、藤堂高虎による縄張で、半年で完成した。 初代城主は、家康の庶子、松平(松井)康重。 その後は、藤井松平氏、形原松平氏、青山氏と譜代大名が続いた。
現在、残っている特徴的な遺構として、 東馬出し、南馬出しがある。また。2002年に大書院が復元された。

篠山城 篠山城天守台

八上城

N35.03'42''68, E135.15'21''06
篠山市【最寄り駅】JR福知山線篠山口駅

波多野経基が朝路山麓に築き、その子秀範が永正年間に山頂に築城。 天正年間に織田軍の明智光秀や羽柴秀長の攻撃を受けたが、落城しなかった。 が、明智光秀に周辺地域から分離されると、形勢不利となり、和議を結ぶために、 波多野秀治、秀尚兄弟は、光秀の母親を八上城に人質として安土へと向かったが、 処刑されてしまった。その結果、光秀の母親も処刑された。その後、秀治の義弟、 二階堂秀香は2ヶ月の篭城の末落城した。
その後は、前田玄以、茂勝が城主となり、関ヶ原後は、権田小太郎が代官となり、 慶長13年(1608)松平康重が入り、翌年篠山城城主となり、廃城となった。
標高459mの高城山(朝路山)山頂を中心に、北側にかけて、曲輪が幾つも存在する。 本丸の石塁は秀治時代の物だろうか?前田玄以のころのものだったりしないか。

八上城1 八上城2 八上城3

芦屋城

N35.37'37''46, E134.26'14''60
新温泉町【最寄り駅】JR山陰本線諸寄・浜坂駅

築城の時期は分っていない。 塩冶周防守が城主であった。 元亀2年(1571)武田高信が攻めたが撃退された。 その後、秀吉の二次但馬征伐の際に落城し、塩冶周防守は鳥取城へと逃れた。 結局、塩冶周防守は雁金城を守ったが、落城し、丸山城へ逃れ、ここも落城し、 切腹した。
現在、城山公園となっているものの、電波塔があるくらいで遺構はよく分らない。 二の丸と小高い岩の本丸があるだけである。


豊岡城

N35.32'23''46, E134.49'14''30
豊岡市【最寄り駅】JR山陰本線・北近畿丹後鉄道豊岡駅

秀吉が有子山城を落城させた後、宮部祥房が本格的に築城した。 それ以前にも、城郭として存在はしていたようだが、確認されていないようだ。 (山名宗全が築城し、垣屋氏に守らせたとか。当時は城崎城といわれた。 但し、城崎(木崎)城=豊岡城かは分らないらしい。) 宮部氏の後、木下重堅、尾藤知定、明石則実、福原道高と替わり、 間に関ケ原の戦いを挟むも、杉原氏3代続き、子孫が絶え、 その後、京極氏が入り、陣屋として明治維新を迎えた。
現在、神武山は公園化され、遺構は破壊されたらしい。 曲輪の跡が分るくらいで、遺構はよく分らない。


正法寺城

N35.32'29''55, E134.48'58''27
豊岡市【最寄り駅】JR山陰本線・北近畿丹後鉄道豊岡駅

山名政豊が播州回復に失敗した後、 国人の離反で九日市の守護所に入れず、ここに一時的に入った。
現在は、日吉山王神社となり、遺構ははっきりしない。 小規模な砦であったのだろう。

日吉神社


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