慶長14年(1609)に築城が始まる。天下普請の1つで、
大坂を牽制するために、
20の諸大名が動員され、藤堂高虎による縄張で、半年で完成した。
初代城主は、家康の庶子、松平(松井)康重。
その後は、藤井松平氏、形原松平氏、青山氏と譜代大名が続いた。
現在、残っている特徴的な遺構として、
東馬出し、南馬出しがある。また。2002年に大書院が復元された。
波多野経基が朝路山麓に築き、その子秀範が永正年間に山頂に築城。
天正年間に織田軍の明智光秀や羽柴秀長の攻撃を受けたが、落城しなかった。
が、明智光秀に周辺地域から分離されると、形勢不利となり、和議を結ぶために、
波多野秀治、秀尚兄弟は、光秀の母親を八上城に人質として安土へと向かったが、
処刑されてしまった。その結果、光秀の母親も処刑された。その後、秀治の義弟、
二階堂秀香は2ヶ月の篭城の末落城した。
その後は、前田玄以、茂勝が城主となり、関ヶ原後は、権田小太郎が代官となり、
慶長13年(1608)松平康重が入り、翌年篠山城城主となり、廃城となった。
標高459mの高城山(朝路山)山頂を中心に、北側にかけて、曲輪が幾つも存在する。
本丸の石塁は秀治時代の物だろうか?前田玄以のころのものだったりしないか。
築城の時期は分っていない。
塩冶周防守が城主であった。
元亀2年(1571)武田高信が攻めたが撃退された。
その後、秀吉の二次但馬征伐の際に落城し、塩冶周防守は鳥取城へと逃れた。
結局、塩冶周防守は雁金城を守ったが、落城し、丸山城へ逃れ、ここも落城し、
切腹した。
現在、城山公園となっているものの、電波塔があるくらいで遺構はよく分らない。
二の丸と小高い岩の本丸があるだけである。
秀吉が有子山城を落城させた後、宮部祥房が本格的に築城した。
それ以前にも、城郭として存在はしていたようだが、確認されていないようだ。
(山名宗全が築城し、垣屋氏に守らせたとか。当時は城崎城といわれた。
但し、城崎(木崎)城=豊岡城かは分らないらしい。)
宮部氏の後、木下重堅、尾藤知定、明石則実、福原道高と替わり、
間に関ケ原の戦いを挟むも、杉原氏3代続き、子孫が絶え、
その後、京極氏が入り、陣屋として明治維新を迎えた。
現在、神武山は公園化され、遺構は破壊されたらしい。
曲輪の跡が分るくらいで、遺構はよく分らない。
山名政豊が播州回復に失敗した後、
国人の離反で九日市の守護所に入れず、ここに一時的に入った。
現在は、日吉山王神社となり、遺構ははっきりしない。
小規模な砦であったのだろう。
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