松浦四十八家の一族、鴨打氏の居城。美濃守秀の時、
千葉氏に招かれ、この地に来た。
その後、龍造寺氏に従い、鍋島家の家臣となった。
現在は、宝泉寺、永林寺がその跡であると云われている。
宝泉寺の西側には、今でも濠の跡かクリークがある。
また境内には鴨打氏の墓もある。
千葉氏の一族徳島氏の居城。鴨打氏とは盟友であるが、
有馬方に属し、対立したこともある。以後、鍋島家に仕えた。
遺構はよく分らない。
江戸期に川久保に領地を持った神代家の飛び地的な領地。
鴨打氏、徳島氏が小城に移った後、鍋島直茂の弟小川信俊の三男は、
既に神代家を神代勝利から継いでいて、親類家老として鍋島家に仕えた。
屋敷の跡は公園やゲートボール場になっている。
遺構はよく分らない。
原貞光が鎌倉時代末期に浜町に来て、築城した。
その後、松尾(糸岐)氏に攻められ落城し、塩田に逃れた。
現在は泰智寺の裏手にある臥竜公園の突端にある。
本丸には神社や句碑が立つ。泰智寺からの登り道に石塁があるが、
当時のものかどうかは分らない。
平安時代末期に峯五郎(源)披により築城されたが、子の持の時に
平戸に移り廃城になった。
その後、松浦党である、波多氏の
支配下であったが、佐賀の竜造寺氏の台頭により、脅威を覚え、
上松浦党の協議の
末に日在城主鶴田直の弟越前守前(すすむ)を城主として守らせた。
岸岳城主波多興が死ぬと相続で一族がもめ、
その室が有馬晴純の子・藤童丸(波多親[鎮])を勝手に迎え、お家騒動に発展し、
その党首であった鶴田直は謀殺された。
その後、波多氏と戦い和睦し、竜造寺氏の兵を退けたが、
波多親の突然の攻撃に落城し討たれた。
秀吉の九州征伐後、唐津藩寺沢広高の領地となり、
支城となり、
未だ動揺する支配下を抑えるために大幅に改修されたようである。
その後、一国一城令により破却されたようだ。
本丸の虎口を塞ぎ新たに反対方向に設けられたことが分り、
出丸で大型礎石建物跡が発掘された、とのことである。
獅子城そのものが崖に囲まれた白山に築かれているが、
さらに石塁でびっしりと囲まれていて、大規模な山城である。
一の曲輪・調馬場の石塁の長さには圧巻。
角牟礼城を彷彿とさせる。
北に存在する鬼子岳城
の石塁も寺沢氏による大改修があったのではと想像に難くない。
二の丸にも強引に登ってみたが、正規の道は見付かっておらず、
草が繁茂していた。
今後、井戸曲輪とともに発掘予定だそうである。
▼平成16年度に井戸曲輪が発掘され、
二の丸への橋?の柱穴の跡や櫓台跡が見付かった。
麓の鶴田神社に鶴田越前守前の墓がある。
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