肥前(佐賀)8



芦刈城徳島城神代館臥竜城獅子城

芦刈城


小城市(旧芦刈町)【最寄り駅】JR長崎本線牛津駅

松浦四十八家の一族、鴨打氏の居城。美濃守秀の時、 千葉氏に招かれ、この地に来た。 その後、龍造寺氏に従い、鍋島家の家臣となった。
現在は、宝泉寺、永林寺がその跡であると云われている。 宝泉寺の西側には、今でも濠の跡かクリークがある。 また境内には鴨打氏の墓もある。

芦刈城説明 水濠

徳島城


小城市(旧芦刈町)【最寄り駅】JR長崎本線牛津駅

千葉氏の一族徳島氏の居城。鴨打氏とは盟友であるが、 有馬方に属し、対立したこともある。以後、鍋島家に仕えた。
遺構はよく分らない。

徳島城説明 徳島城跡?

神代館


小城市(旧芦刈町)【最寄り駅】JR長崎本線牛津駅

江戸期に川久保に領地を持った神代家の飛び地的な領地。 鴨打氏、徳島氏が小城に移った後、鍋島直茂の弟小川信俊の三男は、 既に神代家を神代勝利から継いでいて、親類家老として鍋島家に仕えた。
屋敷の跡は公園やゲートボール場になっている。 遺構はよく分らない。

神代館説明 神代館跡

臥竜城


鹿島市【最寄り駅】JR長崎本線肥前浜駅

原貞光が鎌倉時代末期に浜町に来て、築城した。 その後、松尾(糸岐)氏に攻められ落城し、塩田に逃れた。
現在は泰智寺の裏手にある臥竜公園の突端にある。 本丸には神社や句碑が立つ。泰智寺からの登り道に石塁があるが、 当時のものかどうかは分らない。


獅子城


唐津市(旧厳木町)【最寄り駅】JR唐津線厳木駅

平安時代末期に峯五郎(源)披により築城されたが、子の持の時に 平戸に移り廃城になった。
その後、松浦党である、波多氏の 支配下であったが、佐賀の竜造寺氏の台頭により、脅威を覚え、 上松浦党の協議の 末に日在城主鶴田直の弟越前守前(すすむ)を城主として守らせた。
岸岳城主波多興が死ぬと相続で一族がもめ、 その室が有馬晴純の子・藤童丸(波多親[鎮])を勝手に迎え、お家騒動に発展し、 その党首であった鶴田直は謀殺された。 その後、波多氏と戦い和睦し、竜造寺氏の兵を退けたが、 波多親の突然の攻撃に落城し討たれた。
秀吉の九州征伐後、唐津藩寺沢広高の領地となり、 支城となり、 未だ動揺する支配下を抑えるために大幅に改修されたようである。 その後、一国一城令により破却されたようだ。

本丸の虎口を塞ぎ新たに反対方向に設けられたことが分り、 出丸で大型礎石建物跡が発掘された、とのことである。
獅子城そのものが崖に囲まれた白山に築かれているが、 さらに石塁でびっしりと囲まれていて、大規模な山城である。 一の曲輪・調馬場の石塁の長さには圧巻。 角牟礼城を彷彿とさせる。 北に存在する鬼子岳城 の石塁も寺沢氏による大改修があったのではと想像に難くない。 二の丸にも強引に登ってみたが、正規の道は見付かっておらず、 草が繁茂していた。 今後、井戸曲輪とともに発掘予定だそうである。
▼平成16年度に井戸曲輪が発掘され、 二の丸への橋?の柱穴の跡や櫓台跡が見付かった。
麓の鶴田神社に鶴田越前守前の墓がある。

三の丸 本丸獅子城碑 本丸西端虎口 本丸西端 一の曲輪調馬場 井戸曲輪二の丸堀切 北三の丸 井戸曲輪柱穴 井戸曲輪から二の丸 二の丸から井戸曲輪

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