木下延俊が築城。縄張りは細川忠興で石垣は穴太衆によるもの。
現在は日出小学校となっている。石塁は綺麗に残り、櫓も存在する。
城山の頂上にある。本丸跡とみられるところには地蔵が存在し、
草が身の丈程繁茂しまくり遺構は見分にくい。
本丸の西側の下ったところ(本丸の手前)が二の丸になるのか。
登山道(舗装路)の途中にある石槌神社の少し上部に石塁が散在し、
砦の跡かもしれない。
建久7年(1196)高田重定により築城されたとされるが定かでない。
文禄2年(1593)竹中重利(重隆)により整備された。
江戸期に入ると、竹中氏は大分に移封となり、寛永16年(1639)松平重直が龍王城から入った。
7年後に木付城に移封となった。
寛文元年(1661)に破却されたが、寛文9年(1169)島原藩松平氏の飛び地となり陣屋がおかれた。
(大系・豊後高田の城跡より)
現在は桂陽小学校や公民館となっている台地にある。
北側に水掘が残っている。二の丸北側にも水掘があるようだが未確認。
2016年には三の丸の掘の跡が発掘された。
吉岡宗歓の居城。その後、肥後藩の加藤家、細川家の屋敷が置かれた。
現在は鶴崎小学校、鶴崎高校となっている。
鎮西為朝の築城といわれる。大友氏に属した森氏の居城。
北上する島津氏の侵攻の前に耐えた。
大友氏が去った後、水軍で有名な久留島(来島)氏が入府したが、
石高が足りず、麓に陣屋を設け、廃城となった。その後も藩により立ち入れなかった。
現在は麓に三島神社があり、登山道がある。
が、薮化しており進むのにはかなり困難を要する。
車道を行くことをお勧めする。三の丸で登山歩道と合流する。
搦手から城址に入り、まず石塁に圧倒される。
さらに神社の裏手を登ると本丸跡といわれる頂上に出る。
大手門跡には石塁が残るものの麓への道はよく分らない。
車道から道が繋っているようでもあった(未確認)。
南面する展望台からの景色はすばらしい。
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