龍造寺隆信幕下、綾部鎮幸(賢幸?)が城主であったという。
鷹取山(403.5m)の頂上に本丸がある。北西から南東に平地が拡がり、
現在は草が繁茂しまくっていて、
三角点がそれを示す木の棒はあるものの見付からない。
本丸も半分の辺りに段があって南東部が若干低い。
遺構ははっきりせず、
かなり下った綾部からの登山道の途中に堀切らしき箇所が2つある。
少弐氏の在城の前に、探題である渋川氏の居城でもあったらしい。
少弐資元が12代探題となった頃、一族の馬場経周に綾部城に入らせている。
その際に使われたか。
少弐山の辺りは、植林されているものの、段々状の曲輪構造が歴然と残る。
少弐山頂上からは腰曲輪のようにひたすら南東に曲輪が続き、
傾斜が緩くなった辺りに屋敷でも構えたのか、南西に曲輪が残る。
また、『中原町史』には"交通濠"とあるが、
堀切兼切り通し?のような溝が少なくとも3条、
曲輪の伸びる方向と平行して残る。
詳らかな歴史は不明。綾部5城の出城的な役割か。
竹林と化しているが、曲輪構造ははっきりと残る。
『中原町史』に、みかん園となっていると書かれてあり、
それに該当するエリアはすぐ西にある、ということ故に、
この地は間違いか。
いずれにしても、この辺りは、ほとんど遺構だらけと考えてもよさそうだ。
日向太郎通良が平治の乱に呼応して反乱を起こした際の主城とも云われる。
その後、通良は平家貞に敗れ、七条河原で梟首された。
土塁や堀切が残り、山の中間点にも古城があるとのことだったが、
公園化されすぎて、余りよく遺構が分らない。古城跡も西小城、東小城、
城ベラと看板に書かれてあるが、よく分らない。
古墳も多く残っている。
野田周防守大江清秀の孫房儀が居城とした。
三瀬と姓を改めた後、土佐守宗利の時に、
神代勝利を迎え入れ、北肥二十六山の総将として君臨した。
自然、佐賀の竜造寺隆信と争うようになり、畑瀬城に移った。
勝玉神社から城山へ道が続く。小川に沿って登ると、
当時にも存在したと思われる道があり、後はひたすらこれに従えば良い。
途中、左に曲がるようにテープがあるが、無視して道なりに行けば良い。
まず、石塁で西と南を囲まれた南北に長い二の丸?がある。
それを過ぎると、正方形に近い形で石塁にびっしりと囲まれた本丸へと出る。
本丸には祠があり、また東には石塁が途切れ、
搦手と思われる道がさらに続いている。本城と云われる三瀬山に続くのか?
但し、三瀬山には遺構もなく、その近くの城ノ山も遺構はない。
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