前多久氏の祖である、多久太郎宗直が鎌倉初期に下向し、
梶峰山の麓に築城したと云われる。宗時の時に大内義興に追われた、
少弐政資が岳父である宗時を頼り逃げて来たが、断わられ、
麓にある多久氏の菩提寺である専称寺で切腹し、
その子資元も大内義隆に勢福寺城を明け渡し、
専称寺で切腹した。
宗直から14代続いた後、宗時の子、宗利は龍造寺隆信に追放され没落し、
隆信の弟の長信が入った。
その後、長信が蓮池城に移り、
小田鎮光が城主となったが、
長年の確執もあって結局大友氏の佐賀侵攻の際に叛旗を翻し、
その後、再び長信が城主となり、江戸時代に、鍋島氏の時代に入り、
龍造寺家久(多久安順)の時に龍造寺の姓を憚り、
多久に姓を改め、幕末まで多久を治めた。
『多久市史』の「梶峰城の築城と遺構」に詳しい。
西渓公園から、本丸から北西にある尾根沿い(市史内で8〜12の番号)のある
曲輪を経て登った。麓付近の堀切(I,S)は深くはっきりとしているのに対し、
本丸手前にある堀切(T,U)は浅い。本丸中央には井戸なのか分らないが、
高さ1m半径1mくらいの窪みがある。
南の方が土塁でないようだが、若干高くなっている。
大手からの道は、北に伸びる尾根筋のようである(未確認)。
草野氏の居城。
現在、城山の山頂(377.7m)付近に遺構が残っている。
谷口から登ると、虎口に出て、本丸。
本丸は現在碑が立っていつ所が1段高くなっていて、全体的に土塁で囲まれてある。
虎口と反対の北側にも東に土塁が築かれた二の丸?跡が残る。
本丸の裏側には、堀切を挟んで、東側に曲輪の跡があり、2条の竪堀がある。
さらに堀切を挟んで曲輪が続く。
藤原良房を始祖とする高木氏から分家した於保氏の居城。
一時、没落したが、於保氏子孫である八戸宗益が竜造寺氏によって、於保氏を
再興した。だが、次男宗賜の時に今山に陣取る大友方に
加担したがために、結局、その大友氏の敗北により、滅亡した。
於保天満宮が城館跡と云う。天満宮のすぐ南に立派な墓があるが、
於保氏にまつわる物か。
横大路城と連携していたと思われる。歴史的背景は分らないが、
勢福寺城との関係はないはずもなく、一色氏、菊池氏、江上氏関係の居城であろう。
俗称茶臼隈。日の隈山の東側にある山。
日の隈山への周回コースから、簡単に行ける。
城址は、本丸を中心に南東側と南側に曲輪が2、3段続く。
本丸の南側には土塁の跡が残る。
後藤宗明が三男信明に築城させ守らせたという。これ以後、富岡後藤家として
分家し、竜造寺家信が後藤家に養子として武雄に乗り込んでくるまで存続した。
武雄温泉駅北にある現在の丸山公園で、完全に公園化されてしまい遺構を
見出すのは難しい。だが、山頂である本丸とそれを中心にして広がる腰曲輪の
関係はそのままである。
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