松浦党の始祖源久の次男、持(波多氏始祖)が鎌倉時代に築城したという。
その後、波多氏は、鬼子岳城に移った。
現在、稗田二区にある波多八幡宮の裏手にある。
本丸まで八幡宮から痩せた尾根が続く。
本丸、二の丸、三の丸と西から東に横並びの状態である。
南側は、溜め池?で(左2番目画像参照)、確認はしてないが北側も池のようだ。
本丸は、土塁に囲まれた円形に近い形をしている(左5番目画像参照)。
北側に、曲輪が伸びており、見張り台でもあったのか、
鬼子岳を連想させる。
本丸の南側には、横堀が1条あって、そこから竪堀が数本ある(左4番目画像参照)。
また、二の丸とは、大堀切で区切られてあり(左3番目画像参照)、
位置的には二の丸が若干低い。
二の丸は、シダ類に覆われ、遺構ははっきりしない。
三の丸とも、堀切があり、本丸との大堀切よりは多少浅め。
三の丸もシダ類に覆われ、北側に櫓台跡か、微高地がある。
それより先に虎口があったようだが、繁茂する植生のために確認していない。
孫引きになるが、『風雲肥前…』によれば、相知秀の居館の可能性が高いと云う。
熊野神社社地となっていて遺構は見出せない。神社裏手に曲輪の跡なのか、
若干それらしい気配は感じるが、確証はできない。
御船山城もしくは後藤山城とも。代々、後藤氏の居城。
築城者は分らない。2代後藤資茂とも云う。
19代貴明まで繁栄したが、養子惟明(松浦隆信次男)が反乱し、
住吉城へ逃れ、龍造寺隆信に降った。豊臣秀吉の時に破却させられ、住吉城に
移った。
現在は、西門しか残らない。これは江戸期の物か。
城址については、現在高校となっていて残っていないらしい。
尚、塚崎城は武雄城とも書かれたりするようだが、
『武雄市史』によれば、武雄城は御船山西北にあったらしく、
塚崎城築城以前にあったとのことであるが、遺構がないとのことである。
5代後藤清明の次男八並共明の居館。
八並氏は右衛門大夫和明の時、後藤惟明に加担し、家名が絶えた。
現在は諏訪神社となっている。本丸や曲輪の跡は比較的良く残っている。
18代室町時代に後藤純明がここに築城した。
また平安末期に後藤助明が築城したともいう。
慶長4年に20(21?)代茂綱の時に火災で廃城となり、
塚崎城に移った。
現在、は黒髪山への登山道を一の鳥居から少し行った所にある。
周囲を囲む、堀は3〜4mあり、土塁の跡もある。
南には、当時、堀を挟んで何かあったように見える。
また、北にも人工的に削られたような跡がある。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。