肥前(佐賀)11



波多城相知館塚崎城諏訪の塞(砦)住吉城

波多城

唐津市(旧北波多村)【最寄り駅】JR唐津線山本駅

松浦党の始祖源久の次男、持(波多氏始祖)が鎌倉時代に築城したという。 その後、波多氏は、鬼子岳城に移った。
現在、稗田二区にある波多八幡宮の裏手にある。 本丸まで八幡宮から痩せた尾根が続く。 本丸、二の丸、三の丸と西から東に横並びの状態である。 南側は、溜め池?で(左2番目画像参照)、確認はしてないが北側も池のようだ。 本丸は、土塁に囲まれた円形に近い形をしている(左5番目画像参照)。 北側に、曲輪が伸びており、見張り台でもあったのか、 鬼子岳を連想させる。 本丸の南側には、横堀が1条あって、そこから竪堀が数本ある(左4番目画像参照)。 また、二の丸とは、大堀切で区切られてあり(左3番目画像参照)、 位置的には二の丸が若干低い。 二の丸は、シダ類に覆われ、遺構ははっきりしない。 三の丸とも、堀切があり、本丸との大堀切よりは多少浅め。 三の丸もシダ類に覆われ、北側に櫓台跡か、微高地がある。 それより先に虎口があったようだが、繁茂する植生のために確認していない。

波多城図 波多城外観 波多城本丸-二の丸大堀切 波多城本丸竪堀 波多城本丸 主郭手前堀切 主郭直下

相知館

唐津市(旧相知町)【最寄り駅】JR唐津線相知駅

孫引きになるが、『風雲肥前…』によれば、相知秀の居館の可能性が高いと云う。
熊野神社社地となっていて遺構は見出せない。神社裏手に曲輪の跡なのか、 若干それらしい気配は感じるが、確証はできない。

熊野神社麓 熊野神社 熊野神社裏参道

塚崎城

武雄市【最寄り駅】JR佐世保線武雄温泉駅

御船山城もしくは後藤山城とも。代々、後藤氏の居城。 築城者は分らない。2代後藤資茂とも云う。 19代貴明まで繁栄したが、養子惟明(松浦隆信次男)が反乱し、 住吉城へ逃れ、龍造寺隆信に降った。豊臣秀吉の時に破却させられ、住吉城に 移った。
現在は、西門しか残らない。これは江戸期の物か。 城址については、現在高校となっていて残っていないらしい。 尚、塚崎城は武雄城とも書かれたりするようだが、 『武雄市史』によれば、武雄城は御船山西北にあったらしく、 塚崎城築城以前にあったとのことであるが、遺構がないとのことである。

塚崎城西門1 塚崎城西門2

諏訪の塞(砦)

武雄市【最寄り駅】JR佐世保線武雄温泉駅

5代後藤清明の次男八並共明の居館。 八並氏は右衛門大夫和明の時、後藤惟明に加担し、家名が絶えた。
現在は諏訪神社となっている。本丸や曲輪の跡は比較的良く残っている。

諏訪神社 本丸1 本丸2

住吉城

武雄市(旧山内町)【最寄り駅】JR佐世保線三間坂駅

18代室町時代に後藤純明がここに築城した。 また平安末期に後藤助明が築城したともいう。 慶長4年に20(21?)代茂綱の時に火災で廃城となり、 塚崎城に移った。
現在、は黒髪山への登山道を一の鳥居から少し行った所にある。 周囲を囲む、堀は3〜4mあり、土塁の跡もある。 南には、当時、堀を挟んで何かあったように見える。 また、北にも人工的に削られたような跡がある。

大手口 堀1 堀2 本丸 縄張図


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