江戸期から寺沢家であったが、島原の乱で改易となってしまった。江戸末期では、
水野忠邦が城主であったころもある。
現在建っている天守閣は、江戸期には存在せず、
近代になって勝手に作られたものである。
菊地武安によって築城された。その後、子孫の姉川氏の居城。
さらにその後、龍造寺隆信に従う。
城址はクリークの中に浮かんでいる。
鎌倉時代頃に築城されたと考えられる。 現在は、横武クリーク公園としてほのかにかつての面影を知るばかり。
鎌倉時代末期に原田種直から分かれた光種が、江上氏の居城として築城したか。
代々江上氏の本城であったが、
天文17年(1548)元種の時、少弐冬尚を迎え、少弐氏の城となった。
武種の時に、龍造寺隆信に屈し、次男家種を養子に迎え、自身は日吉城に移った。
天正17年(1589)家種が家臣一段と共に蓮池城に移った。(「風雲肥前戦国武将史より」)
一方、現地説明板によれば、正平8年(1353)に九州探題一色範氏の子で、
肥前守護の一色直氏が築城したという。
元和元年(1615)に家臣と共に蓮池城に映られたとある。
江上氏の菩提寺である種福寺から登ると、すぐに曲輪跡らしき遺構があり、
道なき道を進むと、最後に二の丸跡、そして井戸(4、5mはあろう)、
本丸跡へと続く。二の丸跡らしき個所には、今でも石垣の石だろうか、
多数の石が散乱している。
平成27年4月に14年振りに訪城したが、
種福寺の東側にある駐車場から登城口が出来ており、
簡易的ながら整備されており、主郭まで藪漕ぎすることなく行きつけるようになっている。
種福寺付近も竪堀や横堀らしき跡が残る。
尾根を登っていくと、堀切が2条あり(下段左1,2画像)、
そこを越え、高度を稼ぐと、主郭のある城域に入る。
以前はいつ落ちてもおかしくない井戸跡(下段中央画像)は、落ちないようにロープで囲われていた。
三角点は土塁の上にある(下段左4画像)。
さらに尾根を北へ行くと堀切がある。
時間がないのでそれ以降は割愛してしまったが、縄張り図によれば郭はまだ幾つかあったようである。
城内は以前に比べば整備されたとはいえ、やや荒れた感もある。
佐賀藩藩祖鍋島直茂の次男鍋島忠茂が支藩として、慶長14年(1609)鹿島藩を興した。
当初は常広城であったが、度重なる水害に悩まされ、9(7?)代藩主直彜の時に現在の高津原に移すことを決め、
文化4年(1807)完成した。
明治7年(1874)佐賀の乱の混乱で、赤門と番所を残して焼失した。
(現地説明版より)
大手門と本丸の正門(赤門)が残っている。
現在は旭ヶ岡公園となり
一部は高校となっている。
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