天文年間(1532〜55)に板楠豊後守景貞・景次が在城した。
天正15年(1587)肥後国衆一揆の際に籠城したが、無血開城したのか記録が残っていない。
(現地説明板より)
坂を登り切った辺りに土塁らしい高まりがあり(中央画像)、
野首と云われる北東部の藪の中はやや段にはなっているものの、明確な遺構はない(右端画像)。
それ以外は畑となっており遺構は残っていない。
歴史的な背景は不明。(大系)
登山口が分からず、林道から藪漕ぎして尾根を登り切ったが、
ため池の横のアスファルト道を登るのが一番楽であった。
城址は、平坦化されており、竹林となっている。
大系では堀切は2本登ってくる道に南北に記載されているが、
北側の下部の方ははっきりしなかった(最左画像)。
南側の上部の堀切は埋まりはしているが、痕跡はある(左2画像)。
主郭内は軽い段がある程度でほぼフラットである(左3,4画像)。
天正年間に肥前の龍造寺氏の侵攻の前に、
大津山城を捨てて、
大津山資冬が当城に籠り、楠田伊豆守の奮戦により5日間の防戦の末竜造寺勢を退けた。
(大系・肥後古城物語より)
神尾神社の北側と西側に残る。
神尾神社の西側の尾根を登ると、西側に藪化した空堀が見える。
間違えて、この堀切を越え、西の尾根に進んでしまったが、
さらに空堀が1条あった。
こちらの尾根は倒木だらけで荒れまくってはいるもののこちらも郭だった可能性は高い。
下から牛の鳴き声が聞こえてきてなんともいえない雰囲気がある。
一方、メインは、神社の北東部で、幅の広い堀切は倒木が目立った。
堀切を挟んだ反対側の最後部に高城と呼ばれる主郭?が残り、
今は祠がある(左4画像)。
南東部は後世に整備されたのか切岸らしい跡が残る(左5画像)。
北側は自然崩壊したのか崖となっており、土橋を確認できなかった。
一方、南東部には二郭が残っている(最右画像)。
鎌倉時代に菊池隆益の4男秀世が築城し、平山氏を称した。
3代城主武秀は応永3年(1394〜1427)筑後溝口の戦いで討ち死にした。
その後永正元年(1504)に平山中務少輔秀直の名前が(菊池氏の?)重臣84名の連署にあり、
城主であったかどうかは定かではないが平山氏は続いていたとみられる。(現地石碑の説明から)
平山温泉の北側の山にあり、途中まで木製の指示板があるのだが、
別荘地の南側の薄暗い荒れ気味の林道入口から入らねばならないが、
この入口からいっさい標識がなく迷った(上段画像)。せめて入口に標識があれば良いのだが。
林道をひたすら南下、分岐はそのまま南へ、東側から廻りこむ。
山頂に向かうアスファルトの道を登ると南側に二の堀切が見えてくる(中段左端)。
少し登ると東へ城址へ伸びる道に至る。
先ほどの二の堀切(中段左2)を越えると、渡るのを躊躇するような朽ち果てた木橋が掛かる一の堀切がある(中段左3)。
すぐに主郭で、管理されておらず、かなり荒れていている。説明板も倒れたままになっていた(下段最左)。
主郭の南側には上下2重の横堀があり(下段左2)、
東側に廻りこみ、東の虎口から続く土橋から落ちる竪堀と合流する(下段左3)。
横堀は土橋の先にも伸びている。
土橋からさらに東側へ斜面を下ってみたが、遺構はないようだった。
一方、登ってきた二の堀切の反対側の最高標高点の途中には三の堀切がある(下段最右)。
最高点には西南戦争の政府軍の陣跡と肥前の高玖殿の子息の墓という「児の塔」が残る。
菊池氏の三大家老の一氏である城氏の居城であったが、
いつの頃か隈部氏の居城となった。
天正15年(1587)肥後国衆一揆の際には、
隈部親永の子、親安(泰)が総大将、家臣の有働兼元が惣物頭としてここに入った。
原口の大手口、西之枡形、保柳口、船尾口、出丸の妙見口、円通寺口に部署を分け、
鉄砲830挺を用意し、付近の住民も含め男女1万8(5?)千人が籠ったという。
8月7日に成政に攻められるも、連日これを退け、
13日には円通寺口から攻め寄せた成政の弟の右馬頭を隈部親安が自ら出陣、
糸木宮内が討ち取った。
その後は、隈本城が一揆勢に包囲されたという報に、
成政は引き上げ、東西の付城に350名を置くばかりだった。
その後立花宗茂が3千を引き連れ、10月9日に激戦し、12月15日に和議が成立し、開城となった。
(大系・現地説明板・肥後古城物語より)
北側と東側は崖となっている台地上に位置する。
南東に位置する付城とはいまも幹線道路で隔たれ、原口の枡形が残る(上段左端)。
ここから主郭まではかなりの距離を有し、現在は家と畑になっており、
雰囲気は残っている。
城菅原神社(上段左2)は城址の西にあり、天正18年に隈部親安により建立されたとあるが、
親安は同16年に小倉で斬られているので?である。
当時は郭の一部であったと見られる。
三の丸は、主郭の南側地蔵口の南側にあり、現在は開墾されているようである(下段最左)。
二の丸はその北側で主郭から土橋で繋がる(下段左2,3)。
主郭はやや藪化している(下段左4)。北側は崖状になっており、
北東方向に下の段と呼ばれる、平坦地が数段残っているがかなり藪化している(下段最右)。
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