菊池則隆の次男西郷太郎政隆より出た山鹿氏代々の居城だった。
天正15年(1587)山鹿彦次郎重安の時に伯父の菊池城主の隈部親永が佐々成政に反旗を翻すと、
重安は息子の隈部親安と城村城に籠城し、翌年5月小倉にて切腹した。(現地説明板より)
山鹿の中心部、清滝神社に石碑が立っており、遺構らしい遺構はないが、
周辺よりも高い位置にあり、雰囲気は残っている。
明徳元年(1390)伊賀国服部氏に属した初代基貞が下向し内空閑氏を称した。
菊池氏直属の国衆として存在した。
永正2年(1505)菊池能運の死後、内空閑重載は後嗣と定められた政隆を追い出し、
大友氏の後援を得た阿蘇惟長を菊池氏に迎えた。
が、その翌年、惟長方と大友方と対抗し、追い出した政隆方に協力し、
当城に政隆を迎えている。その後は、大友氏支配下でも国衆の代表的な地位を確保し、
重載、刑部少輔(長載)、同系統か分からないが、鎮真、鎮資と続き、
鎮照が幼いので叔父の鎮房が跡を継ぎ霜野城にいた。(大系)
また鎮資の妻は隈部親永で、子供がいないので5男の鎮房を養子にし、
その後鎮資に鎮照が生まれた。隈部氏の後援を受ける鎮房方と鎮照方で対立し
城氏の仲介で鎮房が北の霜城を、鎮照が南の内空閑城を治めるようになった。
天正7〜8(9・現地説明板)年(1581)には城親賢の手引きで進出してきた島津氏により落城されたが、鎮照は兄鎮房の籠る霜野城に合流し奮戦した。
(肥後古城物語)。
天正13年(1585)御船に駐留中の島津氏に使僧を送り、島津氏に組している。
天正15年7月から始まった佐々成政へ反旗を翻した肥後国衆一揆の際には、
城村城を囲む佐々氏が隈本城へ救援に向かう途中の佐々宗能を鎮房勢が討ち取った。
11月19日に霜野城で激戦があり、鎮房は12月1日牧野城へ逃れ、その後三池上総介を頼り、
鎮照は小代伊勢守を頼り、松尾城へ逃れた。
翌年2月(3月3日?)鎮房は安国寺恵瓊と談合するために訪れた柳川城で謀殺され、
鎮照は鎮房の霊を康平寺にまつり、牧野城にいたところを9月20(23?)日に攻められ自刃したという。
(肥後古城物語・大系・現地説明板より)
現在は、内空閑城址公園として麓から標識があり迷わずに城址へたどり着ける。
開墾されており、遺構は鎮資を祀る祠のある土塁(左1,2)と、その西側の堀切(左4)が残るくらいである。
大系に記載されている南側の斜面部には岩盤を削り取った井戸跡がある(右端)。
阿蘇大宮司の居館跡で、惟豊の頃が最盛期で、天文13年(1544)に正三位、18年には従二位を授けられ、
勅使をここに迎えたと推測されている。
天正14年(1586)に島津勢による豊後境の野尻城の攻撃で、逃亡した際に館を焼いて逃亡したと想像されている。
(大系より)
現在は矢部高校の敷地内にあり、改築の際に伝承をもとに発掘された。
金の延べ棒を始めとする宝物類が見つかっている。
阿蘇惟忠の頃に、浜の館に対して、非常時に立てこもる城として築城されたと推測されている。
天正年間に浜の館を焼いて逃亡する際に同様に放棄された模様で、
その後、小西行長領となった際には、結城弥平次、大田市兵衛が城代となり、
加藤領となった際には、長尾豊前善政、加藤万兵衛正直が城代となり、
慶長17年(1612)に内牧城に移り、廃城となったと見られている。(大系より)
通潤橋の北側に位置する。技巧的な印象はない。
主郭には祠があり、南に堀切を挟んで二の丸、東側に三の丸が残る。
後世に開墾されたのか、段丘面が数段残っている。
7世紀後半に、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたために大野城や基肄城、
金田城が築かれる、一方、その食料、武器、兵士などを補給する支援基地として築城されたと推測されている。
以後200年以上使用され廃れた。(現地説明資料より)
国史跡として綺麗に整備されている。
鼓楼と呼ばれる八角形の3階建ての建物が再現され、その他、
米倉、兵舎、板倉なども再現されている。
今回時間がなく見られなかったが、南側には土塁や門の跡など残っている。
西側にも若干ながら土塁が残っている。
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