日野家が京より下向して、大津山氏を名乗る。
7代資冬の時に大友氏に叛旗を翻し、本城である大津山城は落城し、流浪した。
その後に大津山城に入った小原鑑元も大友氏に叛旗を翻す結果となり、
大津山城の勝手知ったる資冬が落城させ、復帰した。
その後、8代家稜は九州征伐の際に秀吉に領土を安堵された。
が、肥後に入った佐々成政に領地を削られ、一揆に加わり、結局討たれた。
その後、大津山城は佐々氏、加藤氏のものとなり廃城となった。
現在は麓は大津山阿蘇神社となっている。頂上付近に曲輪の跡がしっかりと残る。
本丸の天守台らしき跡は石塁で一段高くなっている。
北面に堀切があるらしいが今回確認しなかった。
また、神社の脇に見事な段状になった林があるが、屋敷跡かもしれない。
佐々成政の後の北肥後を賜わった加藤清正が北の押えとして、大津山城から移した城。
完成を見ずに一国一城令で廃城となった。
さすがに加藤清正の縄張りだけあって規模は壮大で、要塞といったところである。
現在、発掘調査中である(03,2,16現在)。
本丸は石塁で囲まれ、堀は深く、二の丸はかなり広い。
また本丸には西南の役での官軍墓地がある。
6代大津山資秋の居館とある。
本城である大津山城は有事の際に使われ、平時はこちらにいたのだろうか。
現在は本丸は樹木が栽培されてある。
虎口から登る道は往時と変わってはいないように思われる。
曲輪の跡もそれなりに残る。
慶応4年(1867)200年間江戸に在った肥後新田藩(10代藩主細川利永)は、
明治維新のさなか、本藩の勧めで肥後に下向し、高瀬藩と称したが、
明治3年9月に本藩へ統合され、完成目前の藩邸は建設中止となり、
藩も消滅した。(現地説明版より)
現在は小学校になっており遺構らしいものはないが、
正門からやや登るようにした位置にあり、陣屋跡の雰囲気は残る。
菊池一族、高瀬氏の居館であった。
菊池武尚を祖とし、武国、武楯、真武、武教、泰朝と続いた。
武教の頃、貿易で富を得たが、16世紀初めには菊池本家とともに衰退した。
(大系・現地説明版より)
現在は菊池武尚などを祀る、保田木神社となり、江戸時代には町奉行所が置かれ、
遺構らしいものは残っていない。神社自体はやや小高くなっている。
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