土屋氏や加藤氏の居城説があるだけで、詳細は定かでない。(大系より)
土屋観音の裏側にある小山が城址で、
100人は入れるかそうにもない比高も20mもない小規模な城址である。
神社横から堀底道が山頂部まで続いており(最左画像)、
山頂部は削平地となり、2段になっているくらいで、遺構らしい遺構はない。
小代氏家臣の堀切種藤が城主だった。(大系より)
城集落の民家の中に登り道があり、
畑化されて、遺構は残っていない。
畑自体も跡になっているような。雰囲気は残っている。
鎌倉時代に小代家惣領重康により築城された。文禄2年(1593)に廃城になった。(現地説明板より)
筒ヶ岳城の出城で、府本町に位置する。
獣除け用の柵をはずして中に入る。訪城者がほとんどいないせいか登り道は蜘蛛の巣だらけである。
登り道途中から郭らしい雰囲気になるがシダなど藪っており、遺構ははっきり分からなかった。
最初に辿り着く郭が三郭でYの字に北東側が二郭で北西側が一郭とされる。
三郭には祠があり(左2画像)、南側に土塁らしい跡が残る(中央画像)。
北側に一段高くなり(左4画像)、北東側の二郭との間に堀切が残る(最右画像)。
二郭というより全体的に藪化、蜘蛛の巣だらけで、二郭から斜面を下った所にある、
堀切2本を見逃した。
北西側の一郭も同様に藪化している。ここは季節を選んで行くべき城址であった。
標高501mの筒ヶ岳の山頂を中心に遺構が展開される。 マニアックな平山コースから涸沢を辿り、最後に登り詰めた谷が、 堀切から伸びる竪堀だった(上段左端画像)。 余りにも急なので、ロープも補助的に設置されている。 登り切ると堀切(上段左2)でその北側に遺構があるかは未確認。 登ると、余り整備はされていないが(上段中央)、竪堀の跡や、切岸の跡が多数残っている(上段左4)。 深い堀切(上段右端)を越えて登り返すと山頂である主郭(下段左端)に到達する。 主郭の南斜面には石塁が残る(下段左端)。南東部には二郭があり、巨岩がある。 一方、石塁を下った西側には横堀がある(下段左2)。 さらに西側に下る道があり、遺構があったようだが未確認。 二郭から下ると1つ目の堀切がある(下段左3)。それを越えると三郭で南側に土塁が残る。 そこを下ると、二重堀切で残存状況も非常に良い(下段左4)。 さらに下っていくと3本目の堀切がある(下段最右)。
暦応3年(1340)に鰐城として文献に出ているが、築城時期ははっきりしない。
和仁氏の居城であったが、天正12年(1584)龍造寺・田尻勢に攻められ、
田尻氏が前もって工作していたので簡単に落城し、田尻石見守の持ち城となった。
が、その後和仁氏が再び城主となったようである。
秀吉の九州征伐の際には早々と開城し、道案内し本領安堵されたが、
天正15年(1587)に佐々成政の検地に抵抗して隈部氏が一揆を起すと、
これに呼応して、和仁勘解由親実、弾正親範、人鬼親宗と
姉婿の辺春親行も含めて籠城した。
小早川秀包、安国寺恵瓊、鍋島直茂、立花宗茂、筑紫広門など約1万に囲まれ、
およそ40日後の12月5日に内部の裏切りで落城した。(大系・現地説明板より)
国指定で整備されている。
北側の磨崖仏側から接近したので入口が分からず、
新城口から取りつき、堀切を見て(上段左端)、急斜面で水はけも悪く、取りかかりがなく苦労した。
本丸の南側に三の丸があり、深い堀切で分断されている(上段左2)。
本丸は芝生が綺麗に刈られており、ツゲの木などを使って柱穴の位置が分かるのは面白い(上段左3)。
西側に深い堀切があり、その先に捨郭がある(上段左5)。
堀切の底に降りるのもなかなか大変だった。
捨郭の北側には数段の切岸が見られるように(下段最左)、
全体的に周囲を数段の切岸で補強している。
南西部には弾正屋敷という親範の屋敷があったとされる(下段左2)。
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