肥後7



土屋城平山城梅尾城筒ヶ岳城田中城

土屋城

錦町【最寄り駅】くま川鉄道湯前線一武駅

土屋氏や加藤氏の居城説があるだけで、詳細は定かでない。(大系より)
土屋観音の裏側にある小山が城址で、 100人は入れるかそうにもない比高も20mもない小規模な城址である。 神社横から堀底道が山頂部まで続いており(最左画像)、 山頂部は削平地となり、2段になっているくらいで、遺構らしい遺構はない。


平山城

荒尾市【最寄り駅】JR鹿児島本線・西鉄大牟田線大牟田駅

小代氏家臣の堀切種藤が城主だった。(大系より)
城集落の民家の中に登り道があり、 畑化されて、遺構は残っていない。 畑自体も跡になっているような。雰囲気は残っている。


梅尾城

荒尾市【最寄り駅】JR鹿児島本線荒尾駅

鎌倉時代に小代家惣領重康により築城された。文禄2年(1593)に廃城になった。(現地説明板より)
筒ヶ岳城の出城で、府本町に位置する。 獣除け用の柵をはずして中に入る。訪城者がほとんどいないせいか登り道は蜘蛛の巣だらけである。 登り道途中から郭らしい雰囲気になるがシダなど藪っており、遺構ははっきり分からなかった。 最初に辿り着く郭が三郭でYの字に北東側が二郭で北西側が一郭とされる。 三郭には祠があり(左2画像)、南側に土塁らしい跡が残る(中央画像)。 北側に一段高くなり(左4画像)、北東側の二郭との間に堀切が残る(最右画像)。 二郭というより全体的に藪化、蜘蛛の巣だらけで、二郭から斜面を下った所にある、 堀切2本を見逃した。 北西側の一郭も同様に藪化している。ここは季節を選んで行くべき城址であった。


筒ヶ岳城

荒尾市【最寄り駅】JR鹿児島本線荒尾駅

標高501mの筒ヶ岳の山頂を中心に遺構が展開される。 マニアックな平山コースから涸沢を辿り、最後に登り詰めた谷が、 堀切から伸びる竪堀だった(上段左端画像)。 余りにも急なので、ロープも補助的に設置されている。 登り切ると堀切(上段左2)でその北側に遺構があるかは未確認。 登ると、余り整備はされていないが(上段中央)、竪堀の跡や、切岸の跡が多数残っている(上段左4)。 深い堀切(上段右端)を越えて登り返すと山頂である主郭(下段左端)に到達する。 主郭の南斜面には石塁が残る(下段左端)。南東部には二郭があり、巨岩がある。 一方、石塁を下った西側には横堀がある(下段左2)。 さらに西側に下る道があり、遺構があったようだが未確認。 二郭から下ると1つ目の堀切がある(下段左3)。それを越えると三郭で南側に土塁が残る。 そこを下ると、二重堀切で残存状況も非常に良い(下段左4)。 さらに下っていくと3本目の堀切がある(下段最右)。



田中城

和水町(旧三加和町)

暦応3年(1340)に鰐城として文献に出ているが、築城時期ははっきりしない。 和仁氏の居城であったが、天正12年(1584)龍造寺・田尻勢に攻められ、 田尻氏が前もって工作していたので簡単に落城し、田尻石見守の持ち城となった。 が、その後和仁氏が再び城主となったようである。 秀吉の九州征伐の際には早々と開城し、道案内し本領安堵されたが、 天正15年(1587)に佐々成政の検地に抵抗して隈部氏が一揆を起すと、 これに呼応して、和仁勘解由親実、弾正親範、人鬼親宗と 姉婿の辺春親行も含めて籠城した。 小早川秀包、安国寺恵瓊、鍋島直茂、立花宗茂、筑紫広門など約1万に囲まれ、 およそ40日後の12月5日に内部の裏切りで落城した。(大系・現地説明板より)
国指定で整備されている。 北側の磨崖仏側から接近したので入口が分からず、 新城口から取りつき、堀切を見て(上段左端)、急斜面で水はけも悪く、取りかかりがなく苦労した。 本丸の南側に三の丸があり、深い堀切で分断されている(上段左2)。 本丸は芝生が綺麗に刈られており、ツゲの木などを使って柱穴の位置が分かるのは面白い(上段左3)。 西側に深い堀切があり、その先に捨郭がある(上段左5)。 堀切の底に降りるのもなかなか大変だった。 捨郭の北側には数段の切岸が見られるように(下段最左)、 全体的に周囲を数段の切岸で補強している。 南西部には弾正屋敷という親範の屋敷があったとされる(下段左2)。





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