上方から下向して来た、菊池氏の初期の頃の館と云われる。
その後、隈府城に移った。
現在は田んぼの中にある。
田んぼの石塁を1段上がった所に碑と看板があり、
当時のままの石塁なのかはよく分らない。
小西行長が築城。
その後、細川家が肥後に入府した際に、家老の松井氏が城主となった。
しかし、球磨川の氾濫で現在の八代城
へと移転され廃城になった。
現在は道路拡張工事に伴ない発掘中である(02年10月現在)。
石塁が見事に残っている。
秀吉の九州征伐後、加藤家の支城となった。
朝鮮出兵(文禄の役)の際に、
島津家臣梅北国兼が城を占拠する(梅北の乱)事件が起きたりもした。
江戸期に廃城となったが、佐敷番代が置かれた。
現在は発掘された石塁の上に新たな石を使って復元されて公園化されている。
室町時代に嘉悦氏が城主となる。その後、相良氏の領地となり、島津氏、
そして秀吉の九州征伐の対象となった。江戸期に廃城となった。
現在は舞鶴公園となっていて麓からモノレールも敷かれてある。
本丸は電波塔があるが、その麓に石塁の跡らしき箇所があった。
鎌倉時代に築城されたという。その後、南朝方の城になり、
戦国期に相良氏の領地となった。島津氏の北進に遭い落城した。
秀吉の九州征伐以後は城主は転々とし、
加藤家が肥後藩である時期に廃城となった。
現在は城山公園となっていて石塁も井戸跡に残るだけである。
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