云わずと知れた、熊本城。加藤清正の築城。宇土櫓は、
宇土城に
あった天守閣と云われる。天守閣は、西南戦争の際に、西郷軍の
来襲の前に火災に遭い、燃えた。
下段画像は、2016年末時点の状況。復興までかなりの時間を要するだろう。
阿蘇氏の支城の1つ。島津氏の北上に伴い、滅ぼされた。
ここに行く途中、高森町観光協会にはお世話になった。
小西行長の居城。関ケ原の時に、東軍の加藤清正によって開城させられた。
江戸期に入り、細川家の支藩が一時期置かれたこともある。
現在は、小西行長の像が立つ。
天正16年(1588)閏5月15日に小西行長は宇土・益城・八代郡に24万石を得た。
同年から築城が始まり、手伝いに応じなかった、志岐麟泉、天草伊豆は追われ、
本渡城は落城した。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際に、行長が西軍に属したために、
9月19日に加藤清正家臣、加藤百助、吉村橘右衛門が攻め寄せた。
その後も頑強に持ちこたえていたが、10月1日に行長が六条河原で処刑されていたことが伝わり、
開城に至った。
現在、石垣が残っているが、小西時代の物の外側に清正が積み上げさせたという。
城内には小西行長の銅像が立っている。
松井家の居城。天守閣跡に高校生がたまっていて、 近寄れなかったのが、残念であった。
相良氏の居城。このあたりの山城群の総称を古麓城と云うようである。
ここを登っている時に、猟銃の音が近くに聞こえてきて、ヒヤヒヤした。
建武元年(1334)名和義高が八代荘の地頭に任ぜられ、翌2年に一族の内河義真が下向した。
その後、南朝方の拠点となり、名和氏本宗の顕興が移住したが、文明16年(1484)相良為続が落城させた。
永正2年(1505)相良氏の支配下になり、天文2年(1533)に相良義滋が人吉から八代に本拠を移し、
背後の鷹ヶ峯に新たに城を築いた。
天正9年(1581)相良義陽は島津氏に屈服、その後阿蘇氏攻めで義陽は討ち死にし、
島津氏の肥後経営の拠点となった。秀吉の九州征伐後、小西行長の領地となり、
麦島へ本拠が移り、廃城になった。(大系より)
麓から登り、まずこの城址に辿り着く。 うっすらと参道に堀切があり、その南側の尾根続きに下る斜面に3重の堀切が歴然と残っている。 山頂部には急斜面を登れば行けたようであった。
唯一、説明版等ある城址で、丸山城から鞍掛城の手前を左に曲がると、 途中堀切2本(左1,2画像)を越えて行くと辿り着く。初めて行った時には、新城をさらに北に下って、 堀切跡を見たようだが、今回は見逃してしまった。
丸山城からそのまま尾根上を登ると、右側に切岸が数段続き(左端画像)、 平虎口が残っていた(左2画像)。そこを抜けると送電線のある主郭となる(左3画像)。 また、新城方面にも切岸が残っている(右端画像)。
鞍掛城を登り切り、少し行くと右側に小山があり、少し行くと堀切があり(左端画像)、 その小山が鷹峰城主郭だと気付く。堀切の反対側も小高い山であり、こちらは余り遺構は残っていなかった。 その先の八丁嶽までは遺構らしいエリアは皆無となる。 主郭の東側に堀切が登山道まで竪堀として伸びており(左2画像)、ここを登り、主郭まで急斜面を登る。 主郭にはいつの時代か分からないが、石塁が残っていた(右端画像)。
標高376.1mの八丁山の山頂であるが、遺構らしい、人工的な削平面など何もない。 万が一の詰めの城であったのか、ただ古麓城の総称として八丁嶽城と呼ばれていたのか。
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