応仁・文明の頃(1467〜87)に菊池氏の支族出田秀信が築城したという。
文明17年(1485)黒門原合戦で秀信は討ち死に、
その後、鹿子木親員(寂心)が楠原城から移り、居城となったが、
明応年間(1492〜1501)に隈本(古城)へ移転し、廃城になったと伝わる。
(肥後古城物語・大系・現地説明版より)
石碑の背後はNHKで小高い山となっており、
遺構は残っていない。
建久年間(1190〜99)竹迫輝種により築城された。
竹迫氏の後は合志氏が城主となった。
天正9年(1581)島津氏が肥後に入ってくると、
合志親重(親泰)は島津氏と和平交渉をしようとしたが、
甲斐宗運と親しいという理由で信用しなかった。
父親の親為(親賢・宣(寅?)頓)がしきりに懇願して、
なんとか許されたが、御船城から宗運に宛てた親泰の書状が見つかり、許さないことに決まった。
が、合志親子は戦う意思はなく、9月5日新納忠元、稲田新介が城を受け取った。
親泰は大口に護送され、処刑された。(古城物語・大系・現地説明版より)
上庄集落の北側背後の丘陵地にある。
中心にある最後部に主郭があり石碑がある(左端画像)。
北側に土塁や空堀の跡が残る。
北側には川が流れている(左5画像)。
竹迫集落の南側には大門口の石碑が残っている。
建久年間(1190〜99)に下向してきた、中原師員(竹迫氏の祖という)が上荘に移るまで在住したという。
(大系・現地[竹迫城]説明版より)
竹迫城に対して、新城と呼ばれる。
日吉山王神社の裏手の竹藪の中に、
土塁と空堀らしい跡が残る。西側の道にも土塁らしき跡が残る。
以前はその北側は豊岡小学校ががあり、そちらも城域であったであろうと推測されている。
戦国時代末期に、合志城南方の拠点として、
石原狩野介吉利が城主であった。
天正13年(1585)9月3日、島津軍が肥後に侵攻し、
石原狩野介は討ち死にし、落城した。(現地説明版より)
現在、今石神社に説明版があるのみで、遺構はない。
が、白川の北側で、河岸段丘面に位置し、地形を利用していたことが分かる。
河岸段丘面の麓は古い住宅地で、対照的に上部は新興住宅地となっている。
鎌倉時代より菊池氏の一族の宇土氏が領主であった。
文亀3年(1503)宇土氏は菊池氏との争いに敗れ滅んだ。
その後、八代を本拠とする名和顕忠が相良氏と対立し、
永正2年(1505)宇土城を本拠とした。
その後、島津氏の北進にも協力、天正15年(1587)秀吉の九州征伐の際には、城地を安堵されている。
(現地説明版・大系より)
宇土新城の西側、西岡台にあり、東西に千畳敷と三城と呼ばれる郭に分かれている。
千畳敷は横堀で囲まれ(左端画像)、竪堀も数本下へ伸びる(左2画像)。
千畳敷内には建物跡も再現されている(左4画像)。
一方、西にある三城は西側に土塁と導水状遺構が再現されている(右端画像)。
千畳敷と三城の中心の南側に大手口があったという。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。