国峯の重臣、熊井戸正満の屋敷があった。
その後、天正18年(1590)奥平信昌の所領となった。
元和元年(1615)織田信雄が大和松山と上野小幡合わせて5万石の領主となった。
3代信昌の時に信雄の遺命により松山3万石を叔父の高長に譲り、
小幡2万石のみの領主となった。
明和4年(1767)信邦の時、家老吉田玄蕃が山県大弐と親交があったという理由で、
出羽高畠2万石に移封された。
その後は、松平(奥平)忠恒が入った。(現地[織田氏7代の墓]説明版・大系より)
楽山園という大名庭園が復元され、土塁や空堀も整備されている。
武家屋敷や枡形(左端画像)や石垣が残っている。
児玉党の一派小幡氏の居城。
関東管領山内上杉氏の家臣であったが、
憲重(重定)・信実親子は天文20年(1551)上杉憲政が越後に逃れると、
同22年には武田氏に従った。
長野業政が留守に乗じて小幡親子を追い出し、一族小幡景定を入れた。
永禄4年(1561)11月20日に景定を追って、信実を復帰させた。
長篠の戦いでは信実改め信真は損害を受けて退却し、
武田氏滅亡後信貞と名を改め織田方に帰属した。
が、天正10年(1582)に本能寺で信長が倒れると、
神流川の戦いで敗れた滝川一益が伊勢に逃げた後、
北条方に属し、信定に名を再び改めた。
天正18年(1590)小田原に籠城し、藤田信吉に攻略された。(大系より)
麓の平城部は山城部から1900m離れた入口にあり、
外堀が昭和50年の農地整理で消滅しているが、一部残っている。(左端画像)
外堀から1本道を進み、国峯城の標識のある位置にレンタサイクルを駐輪し、分岐を曲がるが、
ここから先で分岐が多く、なかなか気配がなく、
石碑がある御殿平に辿り着くのに苦労した。
御殿平からすぐで東の郭に出る(左2画像)。鳥居をくぐり少し登ると主郭となる(左3画像)。
主郭からは3方の尾根に郭が展開される。
北側は痩せた尾根で堀切が2本あるだけである(左4画像)。
一方、見つけにくかったが、南西に伸びる主尾根を行くと、数条堀切がある(下段左1,2画像)。
最西端は祠のあるかなり下り離れた位置で、堀切が残っている(下段右画像)。
大胡氏一族の上泉氏の居城であった。
『新陰流』の祖、上泉伊勢守信綱は永正5年(1508)に当城で生誕したと伝わっている。(現地説明版より)
現在は、本郭部分は郷蔵、一郭は西林寺(左端画像)、出丸が王泉寺(右端画像)となっている。
はっきりとした土塁などはなかったが、寺院となっていたりして、雰囲気は残っている。
平安末期・鎌倉時代から続く大胡氏は室町前期まで城址から西にある養林寺辺りに館を構えていたと推測されており、
現在の城址にある地には大胡氏が築城したと推測されているが、時期は定かでない。
天文10年(1541)頃金山城主の横瀬泰繁の圧迫により、
北条氏を頼って牛込に移った。
その後は金山に属し、増田繁政が城代に入るも、
由良(横瀬)成繁は上杉輝虎に反旗を翻したので、
永禄9年(1566)北条高広に預けた。高広は一時上杉氏に背くも、
越・相講和で許され、子の景広が厩橋城、高広は大胡城にいた。
上杉家の後継者争いで景広は討ち死にし、高広は厩橋に移り、武田勝頼に従った。
本能寺の変で滝川一益が厩橋を去ると再び高広は厩橋に入り、真田昌幸を結び、
大胡常陸介高繁に大胡城を固めさせ、北条氏に対抗した。
天正12年(1584)高繁も高広も北条氏に従い、天正15年(1587)高広(法林)は大胡で亡くなった。
天正18年(1590)北条氏が滅ぶと、関東に入府した徳川家康の家臣牧野康成が2万石で大胡に入り、
現在残る城の形に改修した。
元和2年(1616)5万石余で子の忠成が越後長峯に加増転封となり、前橋藩の酒井氏の領地に組み込まれ、
城代が置かれたが、寛延2年(1749)酒井氏の姫路への転封に伴い廃城になった。
(大系・関東の名城を歩く 北関東編より)
東側に荒砥川が流れ、城内にも風呂川という小川が流れ、天然の堀となっている。
主郭は急こう配な崖の上に位置し、
南側には石垣による枡形虎口が残る。
主郭は東側が崖で、それ以外は空堀に囲まれ()、北側は北城との間に深い堀がある。
北城より1本道路を挟んだ北側には大胡神社があり、当初中心部であった近戸郭があった所で、
神社の北側には10mくらいの深い空堀が良く残っている。
城址の西側には、牧野康成、その父の成定、子の忠成の墓があり、
北東隅に空堀が残っている。
築城時期は定かでない。
永禄4年(1561)上杉輝虎が当城を占領し、長尾景長に与え、その家臣新居与一長重が城代となった。
その後、横瀬繁勝が奪い、沼田景義を入れたが、天正2年(1574)謙信は奪還し、
天正4年(1576)には金山城の属城となり、新居長重が城代に戻った。
天正10年(1582)武田氏滅亡後は北条氏の持ち城となり、
秀吉の北条征伐の際には、北爪氏が城主であった。落城し、廃城になったという。
(大系と現地説明版より)
公園化されてやや近代化されているが、水掘は残っており、郭構成はよく残っている。
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