『関八州古戦録』の永禄13年の条に、望月神八郎重氏、仁科加賀守信盛、伴野助十郎に守らせる、
また『甲陽軍鑑』に新しく城を取り立てとあることから、永禄11年(1568)に築城計画がなされたと
推定されている。傑出した遺構の割に歴史の詳細が分かっていない城である。
(「戦国武田の城より」)
山名城から遊歩道で、搦め手から入る形になる。
主郭西側の空堀を抜け、反時計回りに行くと、堀切があり(左端画像)、
越えた所が麓から続いているであろう大手通となる。
大手から登ると、枡形(左2画像)を経由し、馬出しを経由して主郭(左3画像)に至る。また、
主郭と北側の郭の間には空堀があり、さらに西に行くと井戸の跡や、土橋が残っている(右1,2画像)。
新田義重の子義範はここに拠って、山名氏を称した。
その後、木部氏の要害城として天正18年(1590)まで活動していたと推定されている。
(大系・現地説明板より)
すぐ近くにある根小屋城に比べると、
自然地形を利用した城郭に見える。
主郭を中心に、堀切で尾根上の郭と断ち、余り技巧的な臭いはしない。
国峯城の支城で、小幡氏の重臣庭谷左衛門尉が在城した。
天正18年(1590)秀吉の北条征伐の際に、国峯城とともに落城した。(現地説明版より)
主郭は赤城神社の境内で、南側と西側に一部土塁が残っている(左1,2画像)。
東側は鏑川が流れ断崖となっている。以前は、南側と西側に堀も残っていたとのこと。
400m離れた麻場城と別城一郭の態をなして白倉城ともいう。
城主は、小幡(白倉)道佐で、小幡氏とは行動を別にし、
永禄3年(1560)上杉政虎に従い、同6年(1563)以後は武田氏に属した。
小田原征伐の際には、白倉重家は小田原に立てこもり、
弟の重高が守ったが、北国勢に降った。(大系より)
麻場城に比べ、畑と化しており、公園化されていない。
堀は埋められ、畑となっているが、郭はそのままのようで島のようになっている。
歴史詳細は上記の仁井屋城に同じ。
台地の突端部に四方を空堀で囲繞した主郭があり、南側に二郭が残る。
主郭北側に下った笹曲輪も残っており、遺構の残存状態は良い。
虎口は二郭の南側にある。
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