明確な築城年代は分っていないが、大系によれば、
天正6年(1578)頃から築城に入ったと推定している。
そして天正18年(1590)6月23日に、城主北条氏照は小田原城におり留守のまま、
松井田など開城した北条氏の家臣を前線に、前田・上杉勢が攻め寄せ、
落城した。その後は、徳川家の天領となった。
現在遺構は、城山(深沢山)を中心とする要害地域と、麓の居館地域、
さらに南側の尾根上に展開される太鼓曲輪や根古屋地域など広範囲に広がる。
要害地域には、中腹に金子丸、山頂部に小宮曲輪、松木曲輪、本丸、
無名曲輪があり、無名曲輪の西側の富士見台への道には堀切が残る(右2画像)。
さらに富士見台への道を進むと、狭い尾根に削平地が続き、
竪堀も1本確認される。詰の城(天守閣跡の碑あり)の手前には、
石塁の跡らしい石が崩れている。
天守閣跡の碑のある場所には櫓ぐらいはあったか(最右画像)。
富士見台への道を行くと、岩盤を削った巨大な堀切が残る。
一方、居館地域には、あしだ曲輪(あんだ曲輪)が手前に、
大手口を経て、古道を進むと、城山川に架かる曳橋を渡り(最左画像)、
石塁で固められた虎口に入ると、御主殿跡に至る。
御主殿跡の南側には土塁と虎口が残る。
大手への古道へ入る、空堀に架かった橋の脇から空堀を登ると、
太鼓曲輪のある尾根に出る。
東へ下る方向へ進むと、片堀切と書かれた切岸(下右画像)と、堀切1本があり、
西へ登って行くと、4本の深い堀切が残る(下左画像)。
太鼓曲輪の中心部は、石塁の崩れている辺りか(下中央画像)。
鎌倉時代に大江氏が築城。
現在の公園は見張り台があったところ。平山小学校が城跡らしい。
室町時代後半に築城された。
現在は、空堀跡が残る。
公園入口の看板が小さいのがもったいないところ。
平安時代末期から渋谷氏の居館があった。
しかし、戦国時代に北条氏と上杉氏との戦いにおいて、
北条氏によって焼き払われたという。
現在は金王八幡宮となっている。
創建したのは渋谷氏の祖である、河崎基家で1092年のこと。
遺構としては、渋谷城の石と伝わる石のみ。
大胡氏を祖とする牛込氏の居城。北条氏に属した。
北条氏の滅亡後は徳川氏に従い、廃城となった。
現在は光照寺があって、城の遺構ははっきりしない。
ただ、神楽坂の辺りの高台を利用した城であったことはうかがえる。
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