北畠氏の宇陀三将秋山氏の本城。
天正13年(1585)羽柴秀長の大和入国の時に秋山氏は追放され、
秀長の家臣伊藤掃部頭が入った。掃部頭の戦死後、加藤光泰、羽田長門守、多賀出雲守、
関ケ原後は、福島掃部頭(孝治)が入った。この頃、秋山から松山と改名し、
城下町を整備した。夏の陣の後廃城されたが、織田信雄(常真)が入り、陣屋を設けた。
2006年5月19日に国指定の史跡に指定された。そのせいか、木々が最近になって伐裁されたようで、
今後の整備が期待される。
現在、麓の春日神社から道がある。春日神社の石塁は門の跡である。
薄暗い中登ると、幾つかの平坦部が続く、屋敷跡と思われる所を過ぎると、
堀切があり、城内へと入る。こちらが大手門であるらしい。
城址は、天守跡を中心に部分的に破却されたにも関わらず石塁が残っている。
また東の二の丸との間にも石塁を用いた門の跡がある。
天守のすぐ下には堀の跡か、武者隠しのように痕跡が残っている。
日本書紀によれば、天智天皇の6年11月に、
『倭国の高安城 讃吉国の山田郡の屋嶋城 対馬国の金田城を築く』とある。
壬申の乱では、近江軍が守っていたが、
『乃ち近江軍、財等(坂本臣財)が来たるを知りて、
悉に税倉を焚きて、皆散らけ失せぬ。よりて城の内に宿りぬ。』
天元元年8月に廃城になった。
信貴山城の出城として松永久秀により築城された。
現在、高安山の三角点があるのは、松永久秀が築いた高安城の本丸跡であり、
二の丸との間に道路が貫通されてしまい、遺構が破壊されたことが悔やまれる。
それでも、二の丸、三の丸は非常によく残っており、
堀の跡は綺麗に残っている(左、中央画像) 。
また二の丸は土塁で囲まれてあるのもよく分る(右画像)。
それに対して、本丸の方は北東部に一段下がって曲輪が見られるが、
はっきりとした堀や土塁の跡は残っておらず、薮化しかけている。
全く遺構が見付からないままに説だけが存在した中、
「高安城を探る会」が倉庫群の礎石を昭和53年に発見した。
倉庫跡と見られる所は6箇所あるとのこと。
3箇所は薮化していて断念した。
天智天皇の頃に作られた城であるが、
石塁を全く用いず、礎石が残る点など、
形式としては怡土城に似ている印象がある。
楠木正成が築城したというがこれは定かでない。
天文5年に木沢長政により築城されたが、太平寺の戦いで戦死した後落城し、
その後、永禄2年(1559)に松永久秀により現在残る規模に改修された。
永禄11年(1568)筒井氏により落城されたが、奪回した。
元亀3年(1572)に松永久秀・久通親子は三好義継と謀って、畠山昭高に叛き、
畠山家臣安見氏の交野城を攻めると、信長軍の攻撃を受け、
久秀は信貴山城に籠ったことが、信長公記に見える。
元亀4年(1573)に、ここは信長に赦免された。
が、天正5年(1577)に大坂天王寺に置いていた松永親子は8月17日再び叛旗を翻し、
信貴山城に籠った。これに伴ない、人質2人の少年らが六条河原で処刑されたことが、
信長公記に長々と書かれてある。
10月1日に、細川幽斎、明智光秀、筒井順慶および山城衆に片岡城を落とされ、
10日に、『秋田城介信忠、佐久間・羽柴・惟任・惟住諸口仰付けられ、信貴の城へ攻め上られ、
夜責めにさせられ、防戦、弓折・矢尽、松永天主に火を懸け焼死候。』という風に、
平蜘蛛と共に爆死したことは有名である。
信長公記では、前年同月同日にの東大寺の大仏殿を焼いた祟りとしている。
現在は本丸である山頂(雄嶽)に空鉢堂が立ち、赤い小さな鳥居が雌嶽との分岐から続いている。
雄嶽から北東、北西の斜面にかけて曲輪跡が多く残っており、
中でも中央の曲輪は非常に規模が大きく、松永屋敷と呼ばれている(左端画像)。
その東側の金丸竜王社のある曲輪は木沢時代にも存在したという。
また、高安城への道の途中の北西部の曲輪は繊細な作りとなっている。
また搦手である雌嶽も山頂は削平地となっている(左から3番目画像)。
現在、高安城から朝護孫子寺へとハイキングコースが信貴山城を経由しているが、
かなり城郭の構造を無視したルートになっている。
雌嶽から雄嶽北東部にかけて古い道の跡があり、石塁らしき跡があった(右端画像)。
また、信貴山城から離れて高安城倉庫跡にかけてのハイキングコースに、
信貴山側に向けて張り出したような曲輪跡らしき場所が数ヶ所あったが、
攻城側の陣城であろうか?
十市氏の居城。遠忠が本格的に築城する。
代々筒井氏と親しくしていたが、遠忠の死後、遠勝の頃、
松永久秀の勢力が強まり、松永氏に従うようになった。
その後永禄11年(1568)、秋山氏に攻められ、放棄し、乗っとられた。
遠勝の死後、松永派と筒井派に分れ、結局松永久秀の甥金吾が入ったが、
松永久秀の滅亡とともに廃城となった。
現在は龍王山城は南北に2つ城址を残している。
南側は年代的に古いようで、その後松永氏だろうかに改修を受けたらしい。
南北に4つの曲輪からなり、石の階段も残っている(左端画像)。
その後の改修で作られた物だろうか、
さらに南の弥七丸との間(左2画像)に、またあ北の曲輪との間に、堀切がそれぞれある。
一方北の城址は、土橋や馬池を過ぎた辺りからで、規模が大きい。
石碑のある辺りから登ると、食い違いの土塁があり曲輪となり、さらに登り、
本丸(左3画像)と南東側の曲輪(辰巳の櫓)に挟まれた堀切(左4画像)に至る。
再び。石碑のある地点からさらにダムの方向に行った所から道を入っていくと、
本丸と辰巳の曲輪の東側にある腰曲輪に出て、堀切の跡などある。
ただ日射量が比較的少ない領域なのか、針葉樹林で足下はシダ類で覆われて薄気味悪い。
曲輪の展開の仕方が、信貴山城に類似している印象があった。
さらに北に行くと谷を下り出し、虎口となる。
一方本丸の西側には畝状竪堀が数本あるらしいが、薮化している。
ただ道から下を見れば竪堀が見えたが、それだったのかは判断できなかった。
ここが柳本城なのか、確認要。松永金吾が入った。
前方後円墳を利用した城址で、くびれ部分に堀切があったらしい。
後円部も数段の帯曲輪となっていたのだろうか。
水堀に囲まれたうってつけの場所であったろう。
くびれ部分に明らかに堀切と見られる部分があった(画像)。規模はさほど大きくない。 後円部には虎口らしき箇所が2箇所ある。
中世に自衛手段として、居住地の回りに水濠を設けた。 竹之内には水濠が西側に残っている。 また近くの西山塚古墳のある萱生地区にも水濠が残っている。
吉野城の詰城といわれる。(大系より)
高城山の山頂であるが、展望台が設けられて、遺構らしいものは残っていない。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。