陸奥(福島)4



棚倉城亀ヶ城若松城稲村御所八幡崎館

棚倉城

棚倉町

寛永元年(1624)幕府の命で丹羽長重が、ここにあった近津神社を、 現在の馬場都々古和気神社に移し、翌年起工した。
が、寛永4年2月に急に白河に転封となり、内藤豊前守信照が入り、 2代後の戈信の時転封となり、宝永2年(1705)太田備中守資晴が入った。 享保13年(1728)9月に館林に転封となり、 松平武元が入り、延享3年(1746)転封となって、 小笠原長恭が入り、2代後の長昌の時、文化9年(1812)に転封となって、 井上正甫が入り、次の代の正春の時、天保7年(1836)に転封となって、 松平康爵が入り、3代後の康英の時、慶応2年(1866)に転封となって、 阿部美作守正静が入り、 慶応4年(1868)6月24日戊辰戦争の兵火にかかり落城した。 (大系・現地案内板より)
土塁に囲まれた本丸を水堀で囲み、さらに二の丸がその周囲を囲み、 北側に外堀を挟んで三の丸があったらしいが、 本丸の土塁、水堀が残っている。二の丸の西側に石垣が残っているらしいが、 見付けられなかった。

水堀 土塁

亀ヶ城・弦峰城

猪苗代町【最寄り駅】JR磐越西線猪苗代駅

奥州征伐で軍功のあった、 相模国佐原城 城主佐原義連の孫である、 佐原大炊助経連が鎌倉時代初期に築城したと推定される。 姓を猪苗代とした。同族である黒川の蘆名氏と対抗していたが、 最終的に蘆名氏に従うようになった。 天正16年(1588)隠居した盛国は嫡子盛胤が黒川城の蘆名義広に伺候している隙に、 亀ヶ城を乗っとった。翌年6月4日、盛国は伊達政宗へ内応し、 伊達勢を亀ヶ城へ入城させた。 その翌日、これを足掛かりに伊達政宗は摺上原で蘆名義広を敗り、会津を手中にした。
秀吉の奥州仕置で伊達政宗は会津を没収され、その後、蒲生氏が入り、 町野左近が城代となった。その後の上杉、蒲生、加藤氏の支配下の際には、 城代が置かれ、寛永20年(1643)保科氏が入ると、一国一城とは例外的に2城認められ、 城代が置かれた。明治元年(1868)母成峠で幕府軍が迎撃しようとしたが敗れ、 城代高橋権太夫は焼き払って若松に退却した。 (大系・会津の城・現地案内板より)

現在は、亀ヶ城公園となり、東側に大手門跡がある。 北東部は小学校となっている。 本丸を中心に3段からなる平山城で、本丸は土塁で囲まれている(右2画像)。 南側から西側にかけて、その外に土塁が巡っている(上段中央画像)。
また北西には、堀切を挟んで(下段左画像)、弦峰城が残る。 こちらは、現在公園化されている途中で(平成23年春)、 伐裁されていた(下段中央画像)。土塁で囲まれていたらしく、 北西部に、堀切が綺麗に残っている(下段右画像)。 こちらは形式が古いまま残っている。

大手口 土蔵曲輪 土塁 本丸 二の丸
堀切 弦峰本曲輪 堀切

若松城(鶴ヶ城)

会津若松市【最寄り駅】JR磐越西線会津若松駅

佐原義連が藤原泰衡討伐で功をなし、3代光盛の時に蘆名を名乗り、 康暦元年(1379)7代若狭守直盛の時下向した。当時は東黒川館であったが、 時代とともに規模も大きくなり、黒川城、小高木城と云われた。 20代の義広まで蘆名氏が城主であったが、 天正17年(1589)摺上原で勝利した伊達政宗が入城した。
翌年の秀吉の奥州仕置で、蒲生氏郷が会津に入り、 文禄元年(1592)黒川城を大規模に改修し、 鶴ヶ城と改めさせた。慶長3年(1598)上杉景勝が会津に入ると、 新しい城を築城させるべく、神指城を築き始めたが、 関ケ原の戦いで米沢に転封となり、未完成のままとなった。 その後、蒲生秀行が入るも、嫡子の忠郷が寛永4年(1627)に亡くなると、 嗣子断絶で没収となり、加藤嘉明が入った。 寛永20年(1643)嫡子の明成の時に領地返上し、保科正之が入り、 以後、松平氏(3代正容の時改姓)が明治維新まで続いた。(大系より)

現在残っているのは加藤明成の頃のものである。 天守閣のある本丸と帯曲輪を中心に、 北、西、東に馬出状の出丸(水堀に囲まれる)から構成される。 東側の出丸が二の丸で、その外には三の丸があった。 二の丸は土塁を使用している。 北東部に天寧寺土塁として外郭の跡が残っている(右画像)。

天守 廊下橋 天寧寺土塁

稲村御所

須賀川市【最寄り駅】JR東北本線須賀川駅

鎌倉公方足利氏兼が応永5年(1398)弟の満直を稲村に下向させ、 稲村公方といわれた。また別の弟の満貞は篠川に下向している。 幕府と鎌倉公方持氏が対立すると、 稲村方は石川氏と持氏方、篠川方は白河結城氏や蘆名氏と幕府方に分かれ、 最終的に、満直は持氏と共に永安寺で自刃し、 二階堂伊勢入道・民部少輔も殉じた。 (Wikipediaに依れば、満直と満貞の立場が逆となっており要再考。 ともかく稲村公方は持氏と共に自刃している。) (大系より)
現在は、赤城寺の背後の畑が城址(上段左2画像)で、 巨大な空堀(上段左3画像)を挟んだ赤城神社(上段左1画像)の裏手が北館となっている。 畑の北側と西側には土塁が残り(上段左4,6画像)、北側には藪化しているが、 虎口がある(上段左1画像5)。また、南側にも下へ下る大手道があり(下段左1画像)、 現在は田んぼとなっている、堀の跡が残る(下段左2画像)。 出張合間だったためにLowスペックなカメラしかなかったのが悔やまれる。

赤城神社 畑 空堀 北土塁 虎口 西土塁
大手道 堀跡

八幡崎館

須賀川市【最寄り駅】JR東北本線須賀川駅

天正17年(1589)伊逹政宗が10月26日に須賀川城を攻めた際に、 須田七騎と塩田右近らの東部武士団と佐竹氏の援軍が当城に籠り、 須賀川城が落城後も戦い続け、全員討ち死にしたという。 (現地案内板より)
岩瀬八幡宮の祠を囲むように、「コ」の字に土塁が囲み、やや南側に広がる(左1,2画像)。 空堀はない。 岩瀬八幡宮に登る参道の左側に、山を削って、その周囲を段々にした不思議な空間があった(右1,2画像)。 神社の跡であろうか、それともこれも遺構であろうか。

北土塁 南土塁 左側1 左側2


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