応永年間(1394〜1428)奥州探題宇都宮氏広が四本松城をここに移した。
その後、南朝に属した宇都宮氏は北朝方に敗れ、
その後、文明3年(1471)石橋氏家臣大河内修理が修築し、宮森城と称した。
小浜城主大内備前定綱や百目木城城主石川弾正の讒言により、
大河内備中が自害した後、大内定綱が支配した。
天正13年(1585)伊達政宗が塩松に侵攻し、
支城の小手森城を皆殺しして落城させると、
大内定綱は二本松に逃げ、蘆名氏へ身を寄せた。
同年9月末に、伊達政宗は小浜城、父輝宗は宮森城に入り、
畠山義継は輝宗にとりなしを依頼し、
会談後に輝宗を拉致し、それを聞いた政宗は「粟の巣」で、
追い付いたが、結局、輝宗を犠牲にし、畠山義継も討ち取った。
秀吉の奥州仕置の後、天正19年(1591)蒲生氏家臣稲田数馬が城代となった。
寛永20年(1643)丹羽氏家臣梅原弥三左衛門が城代となり、その後廃城となった。
(大系より)
本曲輪は神社となっており、礎石が残る。
門跡もあり、少し下った所に門が再現されている。
本曲輪とは反対側にも曲輪が展開されているが、
薮化していてはっきりしなかった。
歴史的背景は不明。
現在は墓地の裏手にあり、墓地の背後の斜面の急斜面を登れば、
城址に到達できる。本当に城址なのか多少不安を伴う。
尾根の北側に1段下って、空堀と土塁が直線状に残る(左1、2画像)。
また斜面に沿って登ると、空堀がある(左3)。
その先にも堀切があったようだが、薄暗いので確認しそこねてしまった。
結城顕朝の次男朝重の4代後重継が構築したといわれる。
天正年間(1573〜1592)河東田上総守清重が領主であったが、
天正7年(1579)5月佐竹勢の大軍に攻められ落城した。
天正18年(1590)秀吉により白河領は没収され、伊達氏の家臣となった、
結城義親に従い、廃城となった。(現地案内板より)
現在、白幡神社となっており、参道の横に土塁が残っている。
田村氏一族仲丸左京大夫や白河結城氏配下の上遠野美濃守盛秀が居城したと伝わる。
(現地案内板より)
築城時期は不明。文明年間(1469〜87)には既に赤館源七郎が居城したという。
永禄3年(1560)に蘆名盛氏が再構築し、上遠野美濃守が城代となった。
元亀3年(1572)佐竹義重が攻めたが失敗、天正2年(1574)2,9月にも失敗した。
が、11月に浅川城主の浅川次郎左衛門を内応させて落城させた。
天正4年(1577)4月結城義親は奪回したが、7月に再び佐竹義重が奪回した。
これ以後は、蘆名氏と結城氏の仲がこじれ、佐竹氏の城だった。
天正18年(1590)伊達政宗が赤館に入り、佐竹氏と対峙した。
秀吉の奥州仕置で、佐竹領となった。
関ケ原の戦いの後、天領となり、
慶長14(1609)年に立花宗茂が5万石で入った。
元和6年(1620)柳川に復帰し、丹羽長重が入り、
寛永元年(1624)棚倉城を築城し、廃城となった。
(現地案内板・大系より)
主郭は公園化され、道路が巡り、
また周囲は薮化しており遺構は確認しづらい。
道路の脇に竪堀らしい跡があった(左端画像)。
北西の方へ伸びた曲輪があり、その下に空堀があったようだが、
薮化しており、ないと判断し確認しそこねた。
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