興国年間(1340〜45)に白河結城氏の親朝で、小峰氏を興した。
が、天正18年(1590)秀吉の小田原征伐の際に出陣せず領地を没収され滅亡した。
その後、蒲生氏の支城となり、さらに上杉氏の持城となった。
関ケ原の戦いの後再び蒲生氏の居城となったが、寛永4年(1627)忠郷の死去に伴い、
嗣子断絶で改易となり、丹羽忠重が白河藩主となった。
寛永6年から幕命により足かけ4年をかけて改築を行った。
幕末に阿部氏が棚倉に転封となった後、幕府直轄地となり、
西軍に攻められ炎上、落城した。
現在は、戦後に初めて木造復元された天守閣がそびえてJR白河駅から一望できる。
江戸期に改築されたこともあり、
外を水堀で囲み、石垣を利用した縄張りとなっている。
詳らかな歴史は不明。白河結城氏2代目、結城宗廣の墓がある。
境内の西側と南側に5m程の高さの土塁と1mの深さの空堀が残っている。
頼朝から結城朝光が領地を得、孫の結城祐広がここに本拠地として移住した。
南朝方として働き、その後、北朝に従った。
12代義顕の時、支族の小峰義親に攻められ廃城となった。
本丸辺りしか遺構らしい遺構がなく、戦国時代には使われなかったのか、
山を利用しただけの簡単な構造となっている。
尾根沿いにも堀切?のような地形もないではないが、
ほとんど人の手が入っていないと見るべきであろう。
室町時代は伊達氏の治める所で、大仏城または杉目城と呼ばれた。
応永20年(1413)持宗が足利持氏に叛旗を翻し、ここに籠ったが、落城し、
逃散し、その後力を蓄え復帰した。
晴宗は永禄7〜8年(1564〜65)に輝宗に家督を譲り、
天正5年(1577)にここで没っした。
以後、晴宗の末子杉目直宗が城主であった。
天正18年(1590)秀吉の奥羽仕置後は、
蒲生氏郷家臣木村吉清が福島城と改め、入城した。
慶長3年(1598)には蒲生秀行の後に上杉景勝が会津若松に入り、
寛文4年(1664)米沢に移るまで、水原親憲、本庄繁長、本庄政長が城代であった。
その後、幕府直轄地になったり、本多氏、堀田氏が城主であった時期があり、
元禄15年(1702)から幕末までは板倉氏3万石の居城であった。
現在は福島県庁となり、県庁裏に土塁が、茶停跡として紅葉山公園が残る。
すぐ南側を阿武隈川が流れる位置にある。
また藩主を祀る板倉神社が残る。
鎌倉後期から須賀川二階堂氏の領地となる。
文安5年(1448)に二階堂為氏が須賀川城を築城した。
戦国期に入ると、蘆名氏に敗れ、蘆名氏に従う。
その後、伊達氏と争うこととなり、
伊達氏は家臣団の分裂につけ込み、
天正17年(1589)10月26日守谷筑後の内応により落城した。
その後、政宗は石川大和昭光を城主とした。
会津が蒲生領となると、田丸中務具直が在城し、
上杉領となり、慶長3年(1598)千坂対馬景親・二本松右京が城代となった。
それ以後は、白河領となり、廃城になったとみられる。
現在、二階堂神社のある地点が本丸であったとされる(左端画像)。
遺構は、
その西側にある長松院(中央画像)と神炊館神社(右端画像)に空堀と土塁が残る。
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