三浦義明の末子佐原十郎義連により築城されたと伝わる。
三浦泰村の時に三浦氏は滅んだが、北条時頼に味方したので三浦介を継ぎ、
領地を三浦半島南部に限られ、廃城になった。
現在は明治26年建立の石碑のみ目立たない所にひっそりと立っている。
当時は深い入江を守る衣笠城の支城であった。
衣笠城を本拠とする三浦氏の支城として築城された。
現在は吉井貝塚として公園化されており、土橋と空堀の痕跡が残っている。
三浦道寸が築城したと推測される。
現地案内板には北条氏康が三崎城の出城として築城したとある。
後北条氏の時、対岸の里見氏に備えた拠点となっていた。
天正18年(1590)北条氏の滅亡の後廃城になった。
現在は叶神社の裏手の明神山を本丸としている。
現在は社などあり、遺構も破壊されているが、
背後に堀切があり、井戸の跡(右画像)もある。
さらに続く尾根上にも城域は及んでいるようであるが、確認していない。
武蔵七党の一つ、横山党の田名氏の居館跡と推測されている。
横山時広の次男広季が田名氏始祖で、田名二郎兵衛を名乗っている。
建暦3年(1213)5月、和田合戦で義盛に加担し、
子の時季と共に討ち死にした。
現在、相模川の河岸段丘上にあり、住宅地となって明確な遺構はないが、
蚕影山神社や池の辺りが館跡と推定されている。
平安末期、横山党の小沢氏により築城された。
建暦3年(1213)時兼の時に和田義盛の乱に加担し、滅亡した。(大系・神奈川の城より)
諏訪神社に案内板があり、その裏手に痩せ尾根の山がある(左1画像)。
堀切のような遺構や物見台があったような跡が残るが(左2画像)、こちらは平安〜鎌倉期ではなく、
室町期の小沢城時代の物であろうか。
ここから南西側から回った北西部に館跡がある。
朽ちた民家跡の先にスリバチ状の5〜6mくらいはある土塁が残っている(左3、4画像)。
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