文治5年(1189)藤原泰衡が源頼朝軍を迎撃するために構築した。
泰衡の異母兄西木戸太郎国衡を大将に、2万騎で迎え撃ったが、
28万4千騎の関東軍では多勢に無勢、数日で突破され、奥州藤原氏は滅亡した。
厚樫山中腹から阿武隈川の旧河道にある滝川に至る約3.2km、土塁と空堀が残っている。
場所により、土塁、空堀の本数が異なり、石母田では空堀2本と土塁3本となっている。
現在は南側の土塁と空堀は埋められてしまっている。
伊逹氏家臣石母田氏の居城。
天文の乱(1542〜1548)の時に稙宗党の拠点となったが、その後懸田城に移った。
天文13年(1544)3月に稙宗は再び懸田城から移ったが、10月20日に晴宗に攻められ、
落城し、稙宗は八丁目城に逃げた。
天正18年(1590)秀吉の奥羽仕置で廃城となり、石母田景頼は伊具郡高倉村荒山城に移った。
阿津賀志山防塁のすぐ西側にある、集落に遺構は良く残っている。
本郭は果樹園となっており、東側から南側にかけて水掘が残っている(左3画像)。
西側は空堀で(左2画像)、南側に馬出があるが、住宅の中なので確認できない。
東側にも虎口があり、水掘の中に土橋となって外へ出られる(最右画像)。
基本的に現在も住宅地なので中まで立ち入れないが、
外側も土塁など残っており(最左画像)、雰囲気は良く残っている。
文治5年(1189)藤原泰衡軍の守る阿津賀志山を攻撃するために、本営を置いたとされる。
南北朝の頃は、宇津峰城・川俣城とともに南朝方の有力拠点であった。
貞和3年(正平2年・1347)7月21日北朝方の大将奥州管領吉良貞家の召しに応じ、
伊賀盛光が攻城を開始し、翌22日落城した。その後、国魂行泰に守備させた。
その後は、藤田氏の居城であったようだが、
藤田氏は天文の乱に巻き込まれ、稙宗方に味方したために藤田春親は相馬に落ち延びた。(大系・現地案内板より)
現在、藤田駅の東側の小高い丘の上に公園となっているものの、西側に土塁が残っている(最左画像)。
北西側に枡形虎口があると案内板に書かれおり、確かに土塁が途切れているが、
なんとなくはっきりしなかった(最右画像)。大系の縄張り図によれば、こちらが搦め手で、
大手口は住宅地側であったらしく、全くその痕跡は残っていなかった。
築城時期は定かでない。
伊逹氏譜代の家臣、山崎氏の居城で天文の乱では晴宗につき、所領を加増され、
天正18年(1590)秀吉の奥州仕置により、廃城となった。
現在は、ほとんど破壊されてしまい、
土塁の痕跡と見られる、不自然な小山が民家と田畑の間に一部分残っている。
伊逹氏初代朝宗(念西)が始めに高子岡に築城し、
その後ここに赤館を築いて移ったとされる。
応永7年(1400)大膳大夫政宗は稲村公方足利満貞の下知に従わず、反抗したために、
関東管領足利満兼は岩松氏に攻めさせるも大敗、さらに勅使河原兼貞に攻めさせるも敗北、
上杉氏憲に攻めさせ、9月5日落城したという。
大永3年(1532)稙宗は梁川城から本拠を移した。天文5年(1536)にここで塵芥集を制定した。
同11年(1542)6月突如嫡子晴宗に捕えられ、幽閉された。
これを契機に天文の乱と呼ばれる内紛が起きた。
同15年(1546)稙宗党に攻められ、晴宗は脱出、白石城へ逃げた。
同17年(1548)足利義輝の停戦和解の命令で和睦が成立し、
稙宗は丸森城に隠居、晴宗が家督を継ぎ、米沢へ本拠を移し、廃城となった。
延宝7年(1679)本多忠国が福島15万石に転封となり西館に築城を計画し、
河村瑞賢に建造を依頼したが、天和2年(1682)に姫路への転封となり完成しなかった。
(大系・ふくしまの城より)
中央の唐沢と呼ばれる鞍部を中心に遺構は二分される。
東側が赤館と呼ばれたエリアで、麓から登って行くと大手口に至り(上段最左画像)、
大手口東側にある高台となっている突端状の曲輪は、
戊辰戦争時に仙台藩が砲台場として築いたものであるらしい。
南側に3,4段の切岸が見られるが後世の田畑の跡であるとのこと。
山頂に高館城の石碑があり、南側に空堀が東側にかけて廻りこみ、
土橋が残っている(上段左2画像)。
東側に虎口が残る(上段左3画像)。
一方、西側には堀切(上段右2画像)を挟んで二の丸があり(上段左4画像)、北側に唐沢に下る虎口があるが(上段最右画像)、
いつの時代の物かははっきりしない。
一旦、大手口まで下り、唐沢から西へ行くと、中館で東側の法面には数段の切岸が見られる(中段最左画像)。
西側は土塁が伸びて、空堀を挟んで西館と対面する(中段2,3画像)。
空堀は発掘調査中らしくブルーシートがされてあった。
西館の土塁の裏側には小さな石を積み重ねた石塁となっている(下段最左画像)。
北側(下段左2画像)や西側にも石塁は展開されており、圧巻である。
北側の石塁を下ると空堀が巡っている(下段左3画像)。
南側には高低差をもった枡形虎口があり、ここも発掘調査中であった。
この辺りは本多氏の頃のものであろうか。
この西側は現在は果樹園となっていたらしく、隠居館の遺構はよく分らなかった。
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