永享(1429〜41)長禄年間(1457〜60)の大友親綱からの書状や、
応仁(1467〜69)永正年間(1504〜1521)の少弐・大友と大内氏との戦いなどの古文書に出る。
(福岡県の中近世城館跡II)
九大の駐車場・駐輪場の南側の標高95mの水崎山で、山頂付近は平坦で、古墳の跡なのかやや窪んだ箇所もある。
北側には腰郭のような段となってはいる。
東側には段があるが後世の物らしい。
文献上見当たらない城のため、歴史的詳細は不明。(福岡県の中近世城館跡II)
七曲峠から急登を登り切った山頂部周辺に存在する。
九州自然歩道からは巨岩が見れ、土塁も明確に残っている。
郭内部は自然林ではっきりしない。
南西部には堀切状になっているが遺構かどうかははきりしない。
自然歩道を坂本峠方向に進むと人工的に段になった箇所などあり、
峠を守るためかなんらかの遺構であることは確かなようだ。
坂本峠から蛤岳方面へ少し進んだところに、堀切と思しき箇所があり、 登り切ったところも段が2段あり、城郭跡か分からないが怪しい箇所があった。
天正7年(1579)龍造寺市氏による安楽平城攻めの際に、
やだけの山の頂上に、原田氏と草野氏が在陣した。(福岡県の中近世城館跡II)
油山山頂部を中心に尾根上に郭Iが展開される。北へ伸びる尾根沿いは数段郭が残っている。
もーもーらんどからの尾根沿いにはなく、主郭直前に竪掘(堀切?)らしいのが残っている。
一方、山頂から西へ行った、別のピークにも郭IIがあり、安楽平城方向に切岸らしい跡が残る。
南側にある堀切を見逃してしまった。
平安時代の平家の城と云われるが根拠に乏しく、
安見ヶ城と同時代に見張台的な役割を担っていたと想定されている。
(現地説明板より)
単郭で北側から西側へ腰郭があるだけの小さな城跡である。
大平山の南西側のピークの西側に堀切が1本残る。ピーク周辺も切岸のような雰囲気も残る。 また甘木公園側の171mのピークとの間は林道で破壊されているが、堀切の残骸のような跡があり、 竪掘らしい物も確認できる。公園化された際かそれ以前に破壊されたんだろうか。 大平山自体は公園化されてしまっており、ぱっと見たところ他に遺構はないようだった。
蔦岳城の出郭。
蔦岳城の主郭から西へ200m以上下った場所にあり、独立した感じもある。
祠のある山頂を主郭に狭い腰郭があり、間隔のあいた畝状竪掘が残る。
南西に下る尾根上に堀切らしい跡が1本残る。
泉ヶ丘の住宅地の裏手にある小山にある。 長い土塁と堀が残っている。
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