大内氏家臣、杉氏の居城。大内氏滅亡後は、秋月氏の落城され、そのまま、
廃城となっていた。
しかし、島津氏の侵攻の際に、ここに筑後の星野氏を在城たらしめた。その結果、
秀吉の九州征伐の前に島津氏が引き上げてしまい、残った星野氏は、立花統虎ら
の軍勢に落城された。
星野吉実・吉兼兄弟の首を埋めた場所は、吉塚と命名されたらしい。
高鳥居城の支城。空濠と土塁跡がある。
奈良時代(8世紀)、初め吉備真備が築城担当者。
目的はまだ定かでない。
中国式城郭。高祖山の尾根伝いに築き、土塁で囲まれている。
鬼瓦や望楼跡が5個所、見付かっている。
原田氏の本城。秀吉の九州征伐の際に、島津氏に属き、抵抗したが、
結局開城。その後、徹底的に破壊されたらしい。
上ノ城、下ノ城に分れた構造となっており、おそらく、上ノ城が本丸跡。
本丸の西側には小さな曲輪の跡、東側にはかなり広い曲輪跡がある。
大内政弘の家臣飯田幸松丸により築城された。
その後、筑前大友五城の1つとして拠点となる。
城主は小田部鎮元(紹叱)であったが、竜造寺勢に三瀬を越えて攻められ、
親子討って出て、敗れ、荒平城麓で自刃した。
荒平山の麓に小田部鎮元(紹叱)親子の墓がある。登山道へと登ると、
自刃の地がある。
城址は本丸、二の丸、三の丸、出丸からなる。
本丸と二の丸の間の南斜面には石塁が残る。
本丸三の丸と二の丸が平行した構造をとっており、
本丸は登り口の入口に当たり、二の丸に比べて、
攻撃にさらされる可能性が高い気がする。
「福岡県の城」を参考に登ってから16年振りに再訪し、「福岡県の中近世城館跡II」掲載の縄張り図を参考に周回した。
通称二ノ丸の先の2重堀切とその先の堀切や、北東へ伸びる郭、
二ノ丸から南西に伸びる尾根沿いの堀切3本など初見で見ごたえがあった。
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