詳細は不明。城主の墓などがある宗生寺が近くにある故に許斐山城に関係するか。
大穂川の南側にある小山の北側にあり、かつては天満宮があったとか。
東側にあった竪掘は消失したようではあるが、コンクリート化された今でも階段がある場所がそうなのか。
小山を南側に下った所にうっすらと堀切が2本残る。
秋月氏の端城という。
(福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書1)より
高石山山頂の尾根の、南側に堀切2本、北側に1本堀切があるくらいである。
一方、東側にある立石山へ下ってアップダウンをやり過ごすと、堀切が1本あり、
祠のある主郭である山頂となる。
さらに尾根を下ると崩壊気味で、目立った遺構はないようだった。
秋月氏の端城だった。
(福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書1)より
高石山から北へ延びる尾根沿いに、3箇所に分かれている。
高石山からしばらく尾根沿いに下って行くと、堀切があり、急斜面を登ると、
旧茶臼山(357m)を中心とする郭があり、西側に堀切がある。
北へ尾根を下ると堀切があり、その後自然地形になる。
尾根をさらに進むと、土橋があるような堀切があり、1つ郭を越えると、
深い堀切があり、主郭がある尾根に入る。
標高286mの茶臼山の山頂部が主郭で南側に深い堀切があり、
腰郭がある。
北東山麓部へは道を誤って南東方向へ下ってしまい軌道修正したが、主郭から急傾斜の坂となっている。
しばらく尾根を東方向へ進みやや藪化する。
北へ進路を変えると、堀切がある。さらに尾根を下って行くと2本堀切があるが、どこが主となる郭かははっきりしない。
秋月氏の端城で、村民に修理殿城といわれていた。
天正9年(1581)戸次・高橋軍が秋月領内に侵攻した際に、秋月氏の扇山城代も合戦に参加していた。
(福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書4)より
どの郭も作りが凝った物でなく、臨時的に急ごしらえで作ったのか、少し古い形態なのか良く分からない。
墳丘のような主郭を中心に帯郭が残る。
A郭とC郭、F郭の合わさる所で、遺構の残り具合も良く、中心的な役割だったか。
B郭とD郭の間にあり、郭があるだけで余り特徴はない。
こちらも郭があるだけで自然地形に近い。
B郭とF郭の間にあり、自然地形に近い。
西のH・I郭、北のE郭、南のG郭の合わさる所でG郭ともども南側の中心的な役割があったか。
自然地形に近いが切岸が数段もある。
麓から強引に登ったが、尾根上には削平された跡がいくつかあり、むしろH郭とされる所は自然地形にも近い。
自然地形に近いが切岸はある。
主要の尾根道から北東にはずれているが、北面には綺麗に切岸が残る。
小山という感じで遺構ぽさが薄い。
最南端に位置し、最後に堀切が薄っすらと残る。 その先、標高を上げた場所に1箇所、郭だったかもしれないようなピークがあったが自然地形に近いものだった。
城主など詳細は不明。
南側の尾根に堀切2つと『福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書1』に記載されているが、
1本は明瞭でもう1本はこれがそうなのかという印象だった。急坂を登った所が主郭より1つ下の郭で、
主郭ともども凝った遺構はない。
すぐ西側に谷を挟んで扇山城があるのに対し、一ノ谷城から弥山へ続く尾根沿いには遺構らしい物はないので、
扇山城と呼応する形で築城されたのだろう。
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