福丸城
とともに星野高實が築城したという。(福岡県の中近世城館跡IVより)
福丸城から尾根を上がった中腹にある。
主郭から山側に行った場所にある、二重堀切が良く残っている。
それより南側の山側も平坦で削平された感はある。
主郭の北側にある虎口(右端)は、
麓から上がってくる道のために後世に拡張されたのだろうか、かつての虎口ではないように思われる。
詳細な歴史は不明。
明星山山頂近辺には遺構はないようだ。
炭焼コースを少し下った辺りに堀切のような人の手が入った部分と、
その南側に炭焼の跡か分からないが石塁が残る。
また山頂から下って、北側の尾根を行く、中道コースの尾根沿いに人為的に削られたような郭の様な雰囲気の部分が、
明確な遺構はない。ただ高良山を望むには良い位置である。
新田四郎の居城で新田善良の祖先の城とも、新田忠常あるいは新田義信の城ともあるが詳細は不明である。
(福岡県の中近世城館跡IVより)
比較的広い主郭Iから2つの尾根に郭が多く残る。
北東に伸びる尾根上には細長く削平された郭IIも残る。
一方、西側の尾根上は痩せて狭くはあるが、切岸がはっきりと残っている。
歴史的な詳細不明。
浮羽郡誌と
船越・水分・田主丸・水縄校区文化財マップ
に場所の記載がある。
鷹取山城の中腹にあり、山中城から少し上がった南東に位置する。
北側は現在はのっぺりとした斜面となっている。
その先に主郭と腰郭がある。
背後の山側は東側が土塁のように尾根がそのまま繋がっており、
西側は1段下がった平坦面となっている。城跡かどうかも確証は持てないが、
明らかに人工的に作られた空間であることは間違いない。
龍造寺氏家臣、多久長門と成富十右衛門が
猫尾城の支城として、椿原式部を城代とした。
天正12年(1584)大友氏による猫尾城攻めの際に、椿原式部は大友方に寝返ってしまい、
猫尾城は落城し、黒木氏の家臣に式部は首をはねられ高牟礼城は落城したという。
(福岡県の中近世城館跡IVより)
高峰山頂から東側の尾根にかけて広大な規模に遺構が残る。
下松尾の集落から林道を登るとIIの郭の麓まで至る。
竪掘横を登ると2本の土塁と横掘で囲まれたIIの郭で中はやや不整形である。
北西部の端から土塁状の長大な土橋がI郭のあるエリアまで続いており、特異的である。
途中で90度近く折れた土塁はそのままI郭の麓まで至る。
やや植林地帯ながら荒れている。が、薄っすらと残る畝状竪掘群も確認できる。
主郭部は後世になって手が入ってしまったのか、破壊された感は否めない。
北側には2本の堀切が残り(下段中央画像)、また南西部にも竪掘が残っている。
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