筑後12



兼松城福丸城酒見城榎津城妙見城

兼松城

八女市(旧立花町)

天文2年(1533)には西牟田親毎が城主で、 天正年間(1573〜1592)は、大友宗麟より守護代として派遣された豊饒美作守鎮運が城主であった。 (『福岡県の城郭』・『福岡県の城』より)
なかなか当地を見つけるのに苦労したが、地元では権現山という方が馴染まれているようであった。 主郭から1つ下がった曲輪に権現神社の社がある(最左画像)。 この社の裏を強引によじ登ると、 幅の狭い腰曲輪がある(中央画像)。 基本的に権現神社の周辺以外は荒れたままで、遺構はよく分らなかった。 『福岡県の城』の縄張り図であることを期待していたが、 『福岡県の城郭』の縄張り図が現状に近く、ここ10年くらいで荒れてしまったか。


福丸城

うきは市(旧吉井町)【最寄り駅】JR久大本線筑後吉井駅

星野伯耆守高実が築城し、星野氏の浮羽郡における重要な拠点であった。 東側に館畑という地名があり、麓の延寿寺には城下町があったという。(『福岡県の城』『福岡県の城郭』より)
約10年前に見つけそこなった福丸城を、 ここ を参考にさせていただき、辿り着いた。 熊野神社を通り過ぎ、川を渡った辺りから標高187mのピークを目標に谷を2つ越えて、 藪を漕いで、二の郭の南側の畝上竪堀群に到達した。 痩せた尾根に四方八方に竪堀が伸びており、特異な形式であった(左端画像)。 その北端の堀切(左2画像)の北側には高低差のある二の郭があり、 植林された平坦地となっており、切岸があって主郭となる(中央画像)。 主郭の北側には三の郭があり、西側に虎口がある(左4画像)。 また東側の虎口から比較的歩きやすい道があり、 そのまま進むと取りついた竪堀群に至った。


酒見城

大川市

南北朝の頃、菊池武安が酒見城を攻めたとう記録もあり、 また、天正8年(1580)龍造寺隆信が築城し、鍋島信生(直茂)に守らせたという記録もあり、 築城年代は定かでない。 天正12年(1584)戸次(立花)道雪、高橋紹運が酒見村、榎津の在家を焼き払った時は、 太田家豊が守った。天正15(1587)立花宗茂が柳川藩主として入府した時は、 支城の1つとして、由布美作を城番にした。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、 立花氏が改易になると、廃城、翌年田中吉政配下口分田甚左衛門により取り壊された。 (福岡県の城郭・現地説明版より)
風浪宮の西側の墓地と納骨堂のある場所に説明版がある。 遺構は何も残っていない。 風浪宮にある祇園社は酒見城の鬼門の守りとして祀られたという由来が残っている。 ちなみに風浪宮の狛犬の寄進者に「陣内孝則」氏の名前がある。


榎津城

大川市

元亀元年(1570)大友宗麟は蒲池鑑広に榎津に陣をとり、肥前側の調略を命じており、 この際に築城されたと推測されている。 天正12年(1584)戸次(立花)道雪、高橋紹運が酒見村、榎津の在家を焼き払った時は、 中野少輔清明が在城した。 慶長6年(1601に田中吉政が柳川藩主として入府した際に、支城として残り、 元和7年(1621)有馬氏の久留米入城とともに廃城になり、 石垣のみ久留米城に利用された。(福岡県の城郭・現地説明版より)
すぐ横にある正覚院の住職が田畑として購入し、 後に市に貸与し、昭和31年に城山公園となった。 城山というには山もなく、フラットな公園で、ため池?があるだけで 遺構は何も残っていない。

城山公園内 榎津城説明版

妙見城

うきは市(旧吉井町)【最寄り駅】JR久大本線筑後吉井駅

星野伯耆守が築城し、星野親忠が在城した。 星野氏の本拠の城で、天正14年(1586)8月星野氏が滅亡とともに廃城となった。 (浮羽郡誌より)
巨岩の転がる道を登り続け、左画像の所を右に入る。 しばらく歩き上り続けると、野首と呼ばれる、左右に堀切が2本岩盤を削っている地点に至る。 下の城はその上部である。 中の城へは、右画像の地点で渡河し、ピンクのテープを頼りに、谷を詰めて登ると至る。 上の城へは、堀切を越え、尾根をひたすら登り詰めるだけで良いが、 一部藪化していて、下りに道を見失う可能性があるので注意したい。 今回も、 ここ を参考にさせていただいた。


下の城

上左画像の入口より東側には石塁の跡があり、屋敷跡だったのだろうか。 入口から登って行くと、野首(左2画像)と呼ばれる、堀切2本があるエリアに入る。 ここからが下の城らしい。西側に石垣で囲まれた曲輪が数段あるようだが、 木々が繁茂しており、全貌を掴めなかった。

中の城

下の城から谷を詰めて、東から北へ登ると畝状竪堀に至る。 中の城の北側から東側にかけて、畝状竪堀が多く残る(上段3,4,下段最左画像)。 南側の尾根を登れば上の城で、堀切で断っている(下段左2画像)。 また、中の城の北東側に少し下った場所には、浮羽郡誌でいう、下妙見の曲輪があり、 こちらも北側から東側に数条も畝上竪堀が残っている(下段右1,2画像)。


上の城

中の城から登り詰めた、最高地点にある。 三角形の形をしており、腰曲輪が北側にあり、 1段登った所が主郭で、大きな岩(矢倉石)があり(上段右画像)、背後には土塁がある。 南側の尾根の間には、堀切が3条残っている(下段画像)。




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