『筑後将士軍談』に小田村城跡として、明応・文亀年間(1492〜1502)に溝口常陸介・帯刀が守ったとある。
(「福岡県の中近世城館跡IV」より)
返済川を遡る林道をひたすら南下し、一番南側の西に登る林道を登り、途中の分岐を北上すると、
南側の堀切の下部に出た。
幅の広い堀切で北側の淵は石塁で補強されている(上段左1,2画像)。
すぐに東側から展開される横堀にぶつかる。
西側に行くと、現在も林業で使用されているのか藪もなく、綺麗に横堀が残っている(上段右端)。
竪堀を登り腰郭に入り、さらに登ると土塁で囲まれた主郭より1段下の腰郭に入る。
ここを登ると主郭で南北に分かれており、
やや広い北側の郭(I)の中央に塚の様な削り残し?がある(中段左端)。
ここの西側斜面には手が入っていないようである。
北側に竪堀があり(中段左2)、下ると、3重堀切で、上部の土橋は石がはめ込まれていた(中段左3)。
一番外側が深く(中段左4)、その北側は後世の山道造成により破壊されているが、
北側にさらに堀切があり、西の方へ竪堀となっているのが残っている(中段右端)。
主郭の東側は竪堀がそのまま横堀となり、主郭下の腰郭に繋がっており、
石塁が残っている(下段左)。北を向いた虎口のような箇所があり、下ると、横堀が2本ある(下段右)。
その下はやや藪化しているが、畝状竪堀がある。
その下の横堀を南へ進むと、南側の堀切に戻ってくる。
主郭自体はさほど広くはないが、緊張感のある縄張りで、鉄砲を意識して、戦国期の最後まで使用されたのだろうか。
全て溝口氏による物とは想像しにくく、しかしながら街道からも離れているようにも見え、
最後の城主がどこに属して、どこを敵として意識していたのか気になるところである。
天正年間、大友氏の家臣だった野村主殿の居城であった。
その後、天正14年(1586)には秋月氏の持ち城となって
鵜木城主の日田近江が管理していたようである。
(福岡県の中近世城館跡IVより)
城丸土神社の境内と推定されている。周囲よりわずかに高い位置にあり、すぐ北側を筑後川が流れている。
問註所親照が築城した井上城がすぐ東側にあり、なんらかの関連性は考えられるが詳細は不明なようである。
(福岡県の中近世城館跡IVより)
果樹園の先にあり、堀切は竹やぶかしている。
縄張り図では、周囲に畝上竪掘が14本あるようなのだが、
藪化しているせいか、はっきりしなかった。西側に空堀のような跡がある。
問註所氏と秋月種座が合戦をした際に築城された。
秋月方の星野氏が井上城や立石城を攻めるために使用したと推測される。
(福岡県の中近世城館跡IV・福岡県の城郭より)
廃屋の裏手から尾根を行くと堀切のような跡があり、
直進すると主郭で、右側へ回り込むと、やや薄くなった畝上竪掘が数条あり、
北東側に幅の広い竪掘があり、郭が数段北東側へ続く。
主郭は南側に土塁が残り、虎口らしい跡が残る。
また南側の尾根上に土橋のような跡も残る。
歴史的な詳細は不明
耳納山地の東端、634.6mのすぐ西側に位置する。妙見城の背後の遮断や、鷹取山城への尾根道の遮断が目的か。
堀切が3本、その間に余り削塀されていない郭がある簡素な縄張りである。
真ん中の堀切は2重堀切である。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。