薩摩根智目城城主の大蔵大輔源助能が仁安2年(1167)に徳大寺家の請いにより瀬高荘を管理するために黒木に移った。
それ以来の黒木氏の居城だった。大友氏に属したが、耳川の戦いから龍造寺氏へ。
天正12年(1584)大友義統の侵入では耐えてはいたが、立花道雪と高橋紹運の到着後落城した。
その後、田中吉政の時代には辻勘兵衛が入り、一国一城令で廃城になったとみられている。(現地説明板ほか)
黒木中学校の裏にある山。本丸跡は薄い石を重ねた石塁が見事に残る。
県内随一の古城の跡とあるだけに曲輪跡、土塁、堀切と見ごたえがある。
主郭には神社があり、石塁自体が城の遺構なのか判断しかねるところもある。
主郭の東側には天正12年の際に掘られたという大きな堀切がある。
主郭南側の4本の竪掘は藪っていてよく分からない状態だった。
西側に下ったところに二郭があり、今は薬師堂がある、南西方向に落ちる竪掘が2本残っている。
蒲池氏の居城。柳川城が龍造寺氏により落とされた時に同様に落城
された。
現在は濠の跡なのかクリークに囲まれた地域で公民館周辺が跡らしい。
蒲池鑑盛の頃、ここに平浄庵が創建された。また、古い墓や板碑も残る。
蒲池氏家臣蒲池益種の居城。柳川城の落城に際に鍋島直茂に攻められ
落城した。
現在、この看板は熊野宮にあるが、城址は道路の南側にあった。
東側に濠の跡があり、本丸跡とおぼしき所は民家となり1段高くなっている。
大内家臣陶美作守が筑後攻めの際に拠った。その後、蒲池氏家臣
垂見常陸介が城主となったが、ここも龍造寺氏に落城された。
現在は三橋中学の南に面した場所にあり田んぼしかない。
蒲池氏の支城の1つ。天正7年、龍造寺の侵攻の際に蒲池鑑広が
大津山、和仁氏と共に戦い、逃れて来た龍造寺氏と、
鷹尾城で待ち構えていた、
田尻、三池両氏がここで戦った。
現在でも土塁の跡や濠が残る。
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