五條左馬頭家臣大渕三河守の代々の居城。(福岡県の中近世城館跡IVより)
332.6mの三角点がある山頂を主郭としている。南側に堀切が残る。植林されて視界は開けない。
ちなみに麓の大渕城ノ原には五條邸が残っている。
応永年間(1394-1428)に征西将軍懐良親王に随行して、九州に下校した五條氏の代々の居城で、
天正年間(1573-1590)は五條左馬頭が居城した。(福岡県の中近世城館跡IVより)
山頂である主郭は防災無線の基地局があり、遺構はない。西側に1段下りたII郭の先には、
藪になっているが、竪掘が数本確認できる。
一方主郭の東側のIII郭は細長く、南東に下ったところに堀切が綺麗に残っている。
溝口氏の居城で、正平6年(1315)菊池武光が壊良親王を奉じて入城した。
天文19年(1550)大友氏に叛き、落城された。その後溝口氏の勢力は衰えた。(現地説明板より)
現在、溝口の住宅地の中に説明板と宝篋印塔が祖の他の石塔とともに残っているだけである。
正冶2年(1200)三池摂津守師貞が築城し今福城から移ってきた。
8代後の鑑速と紀伊守親久兄弟は大友方に属したが、永禄10年(1567)龍造寺方に攻められ戦死したという。
(福岡県の中近世城館跡IVより)
大間神社となっていて遺構はないが、周囲よりは少し高い台地の上になっている。
城主は不明。(福岡県の中近世城館跡IVより)
主郭は削平されることもなく自然地形に近く北側の突端部に切岸と堀切のような跡が残る。
また南西側からの尾根道から登ると削平された部分もある。東側の突端部は藪っていて切岸が良く分からなかった。
江戸時代に山頂部が削られてしまったんだろうか、ともかくにわかに城跡とは判別しにくい遺構だった。
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