長禄年間(1457〜1460)頃に大石顕重により築城されたと推定される。
その後、嫡子定重が、またはその子定久が滝山城に移るまでの居城であった。
移った後、北条氏照が滝山城城主であった頃も利用されたという説がある。
現在は麓に円通寺がありその裏手が城址である。
多摩川の方に三角形の頂点を向けた突端状の台地の上に存在する。
ホテルの裏の道路に入口があり、
すぐに本来の虎口が東を向いて残っている(左画像)。
ここからつづら折りの道が本丸まで続く、横矢掛けの構造になっている。
本丸は今は畑もしくは薮となっていて、
南側の馬出は薮が酷過ぎて皆目見当がつかなかった。
縄張りはさらに南西の方向に伸びている。
詳らかな歴史は分ってないが、高月城に本拠を置く、大石氏の支城と推定されている。
その後、滝山城の支城ともなったとも。
現在は遺構は比較的よく残っている。
南北の2曲輪からなる一城別郭で、北の曲輪は自然崩壊が起きている。
滝山街道を戸吹を過ぎ、根小屋と呼ばれる辺りから登り口がある。
南側は竹林で東西に伸びる尾根上に位置し、
東側は「く」の字の空堀で切り(左端画像)、
中央部から枡形虎口を経て、麓へ下る。
北側に空堀があり、北の曲輪へと細い尾根が続く。
少し北へ行くと、空堀が一条あり、曲輪に至り、
さらに出丸への道となる堀切を土橋で越えると北曲輪の本丸となる(右端画像)。
西側が若干土塁跡なのか高地となっている。
北曲輪から北東へ出丸がある。自然崩壊でやや道は危険である。
細い尾根上の道で途中に出丸が残る。堀切などは薮のためによく分らなかった。
秩父氏庶流の豊島氏の居城であった。平安時代末期から続いていたが、
文明9年(1477)長尾景春に味方した豊島泰経・泰明兄弟は、
江戸城城主の太田道灌と江古田・沼袋で戦い、敗れ、
練馬城、石神井城は落とされ、翌年、残る平塚城も落ち、
豊島氏は滅びた。
平塚城の位置は江戸時代より定かでなく、
現在も平塚神社辺りが有力であると推定されている。
境内には「平塚」の名前の由来の甲冑塚が残る。
太田資長(道灌)が築城し、孫の資高が居城し、後北条氏に仕えた。
その後、道灌寺となっていたのを、
明暦元年(1655)、6代の孫資宗が自得山静勝寺と改めたという。
昭和62年に発掘調査があり、
永禄年間(1558〜69)末期から天正10年(1582)頃に普請された空堀が確認された。
現在境内となり遺構はないが、太田氏の菩提寺で、道灌の像を安置した御堂が残る。
豊島氏一族の志村氏により築城された。
その後、赤塚城城主の千葉氏の一族(千葉隠岐守)の持ち城となった。
城址公園の裏手の台地上の熊野神社の境内の西側に空堀が残っている。
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