秩父氏庶流の豊島清光(『城巡礼』によれば清元が正しいことが判明)
がここに館を構えた。
現在は豊島権守清光を開基とする清光寺となっている。
遺構は何も残っていない。
室町時代前期に柳下上総介が館を構えていたと伝わる。
江戸期に入ると、高松藩松平氏の下屋敷となり、
明治の頃は火薬庫、大正の頃は皇室の所有地となり、
現在は国立自然教育園となっている。
都市化から阻まれたこともあり、現在は土塁が良く残っている。
山内上杉氏の目代大石氏の勢力下にあったことから、
その時期に築城されたと推測されている。
その後、天文7年(1538)に北条氏綱に落城され、北条氏の支城となり、
天正18年(1590)北条氏の滅亡後、徳川氏の持ち城となった。
それからは家光の時代まで、青戸御殿(葛西離館・葛西御殿)として使われ、
明暦3年(1657)に廃された。(大系より)
昭和47年(1972)から環七建設に伴う遺跡調査で、
堀の跡や陶磁器や漆器椀などの発掘があった。
が、今は環七の下となった。
葛西清重が晩年、親鸞上人の弟子となり、西光房と号したことから、
現在の西光寺がその館跡といわれる。
西光寺は嘉禄元年(1225)の創建で、
近くにある清重塚といわれる古墳は清重夫妻の物といわれている。
遺構はなにも残っていない。
八王子城城主北条氏照家臣小田野源太左衛門が、
八王子城築城と同時期に築城したという。
天正18年(1590)上杉景勝に攻められ落城したという。(大系より)
昭和54〜55年の都道建設に伴う発掘調査で、腰曲輪、土橋、空堀(右画像)、枡形
などが発掘され、さらに陶磁器類の破片、古銭、鉄砲の弾も出土した。
その結果、史跡保護の声が上がり、トンネルへと変更になった。
現在は公園となっている。
最高所である曲輪(中央画像)の南側の広い曲輪(左画像)は後世に削平されたものか。
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