太田道灌が築城。現在の規模には、徳川家の入府以来。
現在は皇居である。
千葉氏の居城。その後、太田氏、北条氏。
豊島氏の居城。太田氏に敗れ、落城した。
現在は石神井公園として整備されている。
吉良氏の居城。室町時代初期にはこの辺りを領していた。
成高の時に太田道灌と同盟を結んでいた。
その子、頼康の時に北条氏と結び、
天正18年(1590)秀吉の小田原征伐の際に落城した。
松蔭神社、豪徳寺の近く。小さな公園となっている。
大石定重もしくはその子定久の時に
高月城から移った。
その後、大石氏は河越夜戦で敗れ、北条氏照が養子として入り、
永禄2年(1559)前後に城主となった。
永禄12年(1569)武田軍が攻め寄せ、三の郭まで落とされたが、なんとか持ちこたえた。
この後、天正12〜15年(1584〜87)に氏照は本拠を八王子城に移し、
廃城となったと見られている。
加住丘陵の広大な領域を利用して築かれている。
高月城から南東に2km程度とそんなに距離もない。
大手口から急な坂を北へ登ると左に小宮曲輪、右に三の丸があり、
空堀は深く、広い。そこを抜けて中へ入ると、左側は沼地だったようで、
深く薮化している。東へ行くと千畳敷に至る。
千畳敷の東側には馬出が残る(左端画像)。さらに東へ行くと二の丸となり、
信濃曲輪からの道と合流する。
一方、二の丸の南側には南馬出、大馬出が残る。
この大馬出を北東に行くと信濃曲輪、刑部曲輪となっている。
信濃曲輪から大馬出に戻り、北へ行くと東馬出があり、
S字のクランクで二の丸へ入る。
二の丸から北へ進み、右へ枡形虎口から入ると中の丸となる。
ここから本丸へは木橋が掛かっていたようである(右2画像)。
本丸の虎口は内枡形となっていて(右端画像)
北側が高所となっていて多摩川が一望できる。
この本丸自体も袋小路にはなっておらず、北の曲輪へ道が繋っている。
また本丸と中の丸の間にある空堀を北へ下ると搦め手口へと行ける。
城址の石碑のある本丸低部の南西方向にも内枡形の虎口があり、
ここを下って行くと渓流に出る。この辺りになると薮化しているせいか、
掘られ方が浅く感じるが、それでも綺麗に区画されており、
今では踏み跡も薄れ迷いそうになる。
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