横山党椚田氏の居城と伝わるが、長井氏の居城であったという説もあり、
真偽は定かでない。築城は15世紀末期と推定されている。
みころも霊堂の裏手にある。
本丸を中心に遺構ははっきりとしないが、
南側に堀切の痕跡がかすかに残る(左端画像)。
本丸の西側、東側に帯曲輪の跡、本丸からみころも霊堂へ少し下った辺りに、
平坦地が残っている(右端画像)。
平山氏重が北条氏の下で城主であったが、
天正18年(1590)7月12日、秀吉の北条征伐の際に落城したという。
武蔵と甲斐を結ぶ浅間尾根を守る上で重要な場所であった。
吉祥寺の裏手、十三観音への道を登ると、
城址から続く長い竪堀が見え出し、北曲輪の帯曲輪に出る。
北曲輪の現在案内板が立っている曲輪は平坦地で一番広い(左端画像)。
その南側に堀切があり(中央画像)、南曲輪となる。
南曲輪は明確に4段からなっている(右端画像)。
その裏手から背後の山へ尾根は続いているが、
3段の堀切で尾根道を断ち切っている。
北曲輪から下へ伸びる曲輪は薮があり回避し確認していない。
平山越前守重吉もしくは藤橋小三郎が居住していたと推測されている。
現在は公園となっているものの、周囲を土塁と空堀が巡っている様子がよく分る。
特に郭内部の北西部と南西部は高く土塁が築かれている。
また、東側の道路を挟んだ所にも土塁が残っている。
今井氏がこの周辺を領していたようだが城主は不明である。
城郭大系にあるように、城内から墓所が検出されたことをみると、
今井氏の後に領した北条氏関係の城址かもしれない。
西側は裏の山から尾根が続いた、舌端地形となっている。
中心部を土塁・空堀で囲み、土橋で繋った西側には空堀で囲まれた別の郭、
北側には波うった空堀が残っている(右端画像)。
保元の乱に敗れ、大島に流された、鎮西八郎為朝の館の跡と伝わる。
その後、代官屋敷になったとも云う。
現在は、赤門と、抜け穴、物見台が残っている。
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