元弘3年(1333)新田義貞率いる倒幕軍が北条泰家を関戸合戦で破り、
陣をここに布いたことから天守台と云われるようになったと云われる。
すぐ下を走る、鎌倉街道を見下ろす絶好の位置にあり、
関戸城の役割が重要であったことが想定される。
現在、住宅化されてしまい、
かつては土塁や堀切が残っていたようだが、
今も残っていたのかどうかは確認していない。
南一揆衆の居城であったと云う。
その後、北条氏の持城となり、青木氏もしくは貴志氏が城主であったとも云う。
北条氏の支城群の中で防備的というより、街道からも離れた地であることより、
狼煙などを上げた連絡用の城と推定されている。
現在は本丸は平坦地となっており(中央画像)、
東南東から大手道が続いている。
本丸南に堀切、さらに北に曲輪があり、
さらに続く尾根にも堀切が残る(右端画像)。
滝山城主の大石定久が北条氏照に家督を譲り、ここに隠居したという。
宮本氏、網野氏などの南一揆衆の持ち城であったとも云う。
また、城主だったとも云われる小宮氏が、
麓の光厳寺に居館を構えたらしく、今も土塁らしき跡や切岸が残る。
東西の峰に本丸、出丸と分れて存在する。
その間に麓からの大手道が内枡形(左端画像)で内部に入る。
本丸は3段の曲輪からなる(中央画像)。
出丸も数段の曲輪からなり、西側には堀切、さらに本丸から北に、
竪堀が残っている。
横山党藍原氏一族鳴瀬氏または中里伊賀守を城主とする説があるようだが、
定かでない。また、小山田氏の支城であったともある。
さらには小机城の出城とも。
住宅の開発の前に、空堀、土塁、櫓台など姿を消したという。
現在は前方(北)に恩田川を見下ろす台地状の地(城山公園)となって残っている。
物見や狼煙台があったのではと推定されているが、
地元で丸山城と呼ばれていたこと以外に詳らかなことは分らない。
現在は、配水場となっていて、遺構はない。
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